今回は生まれながらにして波乱万丈であった、そんな崇徳上皇(元天皇)と親・兄弟の関係性について徹底解説していきたいと思います。
崇徳上皇を取り巻く親・兄弟・子供など血縁関係について知りたい方は、ぜひ記事を読み進めてみて下さい。図解で詳しく説明してますので分かり易いですよ♪
崇徳上皇の父親は、なんと家系図上曾祖父(ひいおじいちゃん)にあたる白河法皇だと言われてます。それが歪となり数々の困難が崇徳に襲いかかることに・・
崇徳上皇といえば怒りで怨霊となり、朝廷(兄弟)を呪った話は有名です。それは知らなかったーという人はコチラ☟
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怒りで怨霊と化したのは、生まれが大きく影響していたのは間違いありません!
記事では家系図から親や兄弟との複雑な関係性を、1つ1つ紐解いていきますのでバッチリ理解できますよ。
それでは早速本文にいってみましょう。
崇徳上皇(元天皇)の親・兄弟は?家系図から紐解く
崇徳上皇(元天皇)の曾祖父から子供までの家系図になります。よくネット上で一般的に公開されているものはこれですね。
さらに最も権威ある宮内庁公式サイトについては、もっと簡略化されており皇后の名前すら載っていない・・
崇徳天皇の父親と母親は?
崇徳天皇の父親は『鳥羽上皇』、母親は『藤原璋子(ふじわらしょうし/たまこ)』と表向きにはなってますが実際には異なります。
ひいおじいちゃんの白河法皇と、璋子が不倫をしてできた子供が崇徳であるとされています。
公式的にはそれが認めれられていないものの、白河法皇の子であったことは公然とささやかれてました。理由としては、崇徳が産まれた日付が鳥羽と璋子が関係をもった日付と全く一致してなかったからです。
鳥羽自身が一番そのことを分かっていて、自分にとって祖父の息子という意味で『叔父子』と呼んでました。
崇徳天皇の兄弟は?
崇徳天皇の兄弟ですが実はたくさんいます。※ややこしくなるのでここでは崇徳は鳥羽の息子としておきます
5男2女で7人兄弟で、異母兄弟も1男3女で4人もいることになります。
5男2女で7人兄弟の紹介をしておきましょう。
- 崇徳75代天皇・・・第一皇子
- 禧子内親王(きしないしんのう)・・・第一皇女
- 通仁親王(みちひとしんのう)・・・第二皇子
- 君仁親王(きみひとしんのう)・・・第三皇子
- 統子内親王(むねこないしんのう)・・・第二皇女
- 後白河77代天皇・・・第四皇子
- 覚性法親王(かくしょうほっしんのう)・・・第五皇子
通仁親王と君仁親王は生まれつき重度の障害があり、とても天皇にはなれませんでした。覚性法親王も幼くして出家したので、天皇候補としては外れてしまいます。
ということで75代の天皇には崇徳、77代の天皇には後白河が即位します。ちなみに76代の天皇には異母兄弟の近衛が即位。
崇徳天皇の子供は?
崇徳天皇と兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間には、重仁親王(しげひとしんのう)という第一皇子がいました。
白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇が院政を敷くことで権力を握ることになります。崇徳は実の父親である白河法皇という後ろ盾を失い状況が暗転します。
鳥羽上皇は崇徳に天皇位を異母兄弟の近衛に譲らせました。本来なら息子の重仁が継ぐ予定でしたがそうはならなかったのです。
ここで76代近衛天皇が17歳という若さで亡くなり、重仁が天皇になるチャンスがきます。しかし77代天皇になったのは出来の悪い弟の後白河天皇でした。
それは崇徳上皇が藤原頼長と手を結び、近衛天皇を呪い殺したとされる根も葉もない噂が宮中に流れたからです。鳥羽上皇は激怒して、なんとしても崇徳に権力がいかないように画策した結果こうなりました。
この後すぐに鳥羽上皇は亡くなり、今度は崇徳と後白河の対立が表面化していきます。
こうして不満が爆発して崇徳が起こしたのが、かの有名な保元の乱です。しかし残念ながら崇徳は戦いに敗れ、現香川県の讃岐国へ島流しに。
重仁はどうなったのかと言いますと、当然後白河にとって厄介な存在になりますので出家させられます。
出家したあと重仁は両親のいる讃岐国を訪れ、父崇徳と母兵衛佐局の近くで暮らしたという逸話が残っています。
香川県高松市にある檀紙八幡神社の『重仁親王廟』
住所:香川県高松市檀紙町587 重仁親王御廟
崇徳天皇の子孫(現在どこに?苗字は?)
天皇家系図を見ても崇徳天皇の家系は重仁で途絶えています。重仁は23歳で病気で父・母より先に亡くなっており、子供がいた記録もありません。
実はそうではなく崇徳の子孫が残っている可能性があります。
崇徳は讃岐国に島流しをされた時、讃岐国司の綾高遠(あやたかとお)の館(雲井御所)で最初過ごしてました。※まだ正式に住まわれる御所が建設中で完成していなかったため
その際に綾高遠は娘の綾局(あやのつぼね)を侍女として奉公させました。後に崇徳の子供(1男1女)を産むことになります。
産まれた男の子は自分の名前「顕仁」から一字取り、「顕末(あきすえ)」と名付けられました。そして綾家の後継ぎとさせ、菊紋の使用を許したと伝わっています。
現在でもその地域には『綾』の苗字の方がいらっしゃるそうなので、もしかしたら顕末の子孫が残っているかもしれませんね。
ちなみに顕末のお墓「菊塚」が、香川県坂出市府中町に建てられています。
まとめ:父親が白河法皇という疑いから波乱の人生となった崇徳天皇
それではまとめていきましょう。
崇徳は父親が、自分のひいおじいちゃんにあたる白河法皇の子供であるということから、産まれながらにして波乱の人生を歩むことになります。
家系図上は鳥羽上皇が父親となってますが、その可能性が低いとされています。
鳥羽上皇自身がその事実を1番知っているからこそ、崇徳を突き放し嫌がらせばかりをしてたんだと思います。
可愛そうなのは崇徳です。何も悪いことをしていないのに不遇な扱いを受け、結局息子の重仁は天皇になれず高貴な血筋が途絶えてしまいます。
さらに後白河に追い込まれて仕方なく起こした保元の乱では敗れ、現香川県の讃岐国へ島流しとなりました。
島流しについてはコチラの記事を読んでみて下さい☟ 最後は怒りで怨霊になります恐ろしや。
400年ぶりに島流しとなった崇徳上皇(元天皇)。配流先とそこでの生活は?
それでは今回はこの辺で、最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>
初めまして。崇徳天皇の悲運な生涯に感銘を受けました。
この度お願いがありまして、コメントさせて頂きます。
此方の家系図が分かりやすく可愛いので、舞台公演用無料パンフレットに、家系図を使用させて頂けないでしょうか。
その際はよろしければ、お名前を掲載させて頂きます。A4サイズ1枚を100枚くらい配布したいと考えております。
どうか宜しくお願い申し上げます。
記事をお読みいただきありがとうございます。
ぜひパンフレットの作成にお役立てください。