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【俊寛(僧都)といえば島流し!】なぜ喜界島に流されたのかその理由と生涯にせまる

記事の表紙タイトルで俊寛が島流しになった理由とその生涯について

今回は俊寛が島流しになった理由と、その悲惨な生涯について徹底解説していきたいと思います。

俊寛といえば島流しと言われるぐらい、島流しとは切っても切れない関係です。

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
俊寛のストーリーなしでは島流しは語れません

ということで本記事では

  • 俊寛とは? まずその人物像にせまる
  • 島流しにされた理由とは?
  • どこに島流しになったの?
  • 流刑先での生活について
  • 最後はどうなるの?家族との再会は・・

上記内容をメインで解説していきます。

 

結論からいいますと俊寛は平家打倒を目論んだ密会がバレて島流しになります。そして俊寛は罪を許される事なく生涯流刑地で過ごしました。

 

一緒の罪で流された仲間達は許されたのに、俊寛だけが島に取り残されるはめに・・

記事では島流しとなった経緯から、その後流刑先での生活までを分かり易くまとめてますのでバッチリ理解ができますよ♪

 

それでは早速本文にいってみましょう

俊寛とは?その人物像について

俊寛の人物像

俊寛僧都(しゅんかんそうず)は平安時代後期を生きた僧侶になります。※ちなみに僧都は人物の名前ではなく僧位

院政の中枢部として栄えた六勝寺の中でも、最大規模を誇る法勝寺の執行(しゅぎょう)の地位にありました。※執行は寺務を行う重職

さらに後白河法皇の側近であり、高い身分であったことが分かります。

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
僧侶としては順調に出世していて、地位も名誉もあり、反乱を考えるような人物ではなさそうな気がするけど💧

 

 

俊寛が島流しにされた理由とは?

鹿児島県の硫黄島

俊寛の別荘である鹿ケ谷の山荘(京都市左京区)で、平家打倒の密談をしていたことが平清盛にバレて島流しになりました。

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
いわゆる『鹿ケ谷の陰謀』と呼ばれる事件ですね

ただこの密会に招集をかけたのは俊寛ではなく、藤原成親(ふじわらのなりちか)と西光でした。時代は平家最盛期で、平家以外は出世できなかったので不満が溜まっていたのでしょう。

俊寛はその成親に誘われる形でこの密会に参加することになりました。成親は「松の前」と「鶴の前」という二人の女性を使って口説き落としたともいわれてます。

鹿ケ谷の陰謀(俊寛の別荘である鹿ケ谷山荘で平家打倒の密会が行われた)

ただこの平家打倒の作戦は、多田行綱が平家に漏らしたことであえなく失敗に終わってしまいます。

旦那(チャン太郎)
旦那(チャン太郎)
行綱はやはり平家打倒は困難と考え直し密告しました

 

清盛は激怒して下記のような処分を言い渡しました。

  • 藤原成親・・・備前国(岡山県)に島流し
  • 西光・・・斬首されてさらし首
  • 俊寛・・・鹿児島県の下に位置する鬼界ヶ島
  • 藤原成経・・・同じく鬼界ヶ島
  • 平康頼・・・同じく鬼界ヶ島

首謀者である成親の罪が軽いのは、成親の妹が平重盛(清盛の息子)の妻であったため罪が緩和されたのでしょう。

藤原成経は成親の息子で、平康頼は平保盛(清盛の甥)の家来で後白河法皇を警護する北面の武士でもありました。

 

 

俊寛が流罪になった鬼界ヶ島とは「喜界島」「伊王島」「硫黄島」のどれにあたるの?

俊寛が流された鬼界ヶ島とはどの島?

まず俊寛・藤原成経・平康頼が流された鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、薩摩国(鹿児島県)の南にある遠国の島々の総称をいいます。

下記のようにたくさんの島があります。種子島や奄美大島など一度は聞いたことあるような島も含まれる。

硫黄島と喜界島
嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
結局これらたくさんある島の中でどこに流されたの?

結論からいいますと明確な史料が残されておらず、どこの島かは100%断言できません

 

でも可能性として一番高いのは『硫黄島』と言われています。それは流刑先には火山があって硫黄の臭いがきつく、海が黄色に染まっていて都とは全然違う景色だったと伝わっているからです。

あと俊寛の死を哀しんだ島民より俊寛の銅像と俊寛堂が建てられています。

硫黄島港の近くにある開発総合センターに建つ俊寛の銅像。1人だけ島に残されて、浜辺から出ていく船を追いかける姿が造形されています。

島民により俊寛の居住跡に御祈神社『俊寛堂』が建てられています。当時の建物をイメージして造られているのでしょうが、小さくて外観もちょっとみすぼらしい感じがします。

いくら俊寛が高い身分の僧侶であっても、ひとたび流刑者となればひどい扱いですね。

俊寛堂入口
俊寛堂

 

あと硫黄島よりもっと南下した喜界島に流されたという伝説が残っています。

それはお墓から出土された骨が面長の貴族型(相当身分の高い人物)の頭蓋骨で、島内の人と明らかに違う形状であったからです。

同時に遺骨が納められていた木棺は、木曽地方にあるクロベ材を使用しており、立派な隅金具がついていたことが調査で分かっています。

ただこの時代の喜界島は、薩摩国ではなく無所属だったので可能性としては低いです。しかも火山がない点でも合致しません。

喜界島にある俊寛僧都座像

喜界島にある俊寛僧都座像

喜界島にある俊寛のお墓

喜界島にある俊寛のお墓
地元ではもちろんのこと、俊寛が最後を迎えた島は喜界島であると信じられています。

 

他にも信憑性は薄いですが、長崎県にある伊王島に俊寛が流されたという説があります。

伊王島

長崎県は薩摩国ではないですし、火山もなく合致しないことが多いですが・・俊寛僧都の墓碑自体は伊王島中央児童公園にあり現在も弔われています。

伊王島にある俊寛のお墓

 

 

俊寛の流刑先での生活について~平家物語のエピソードから読み解く~

藁小屋と猫

俊寛、藤原成経、平康頼3人の鬼界ヶ島(恐らく硫黄島)に流された後の生活になります。

そこは想像を絶するほど未開の地であり、本土から離れているため文明も発達していなかったといわれてます。

定期船が無く簡単に行ける場所ではありませんので、外部からの物流がなく当然ですね。

環境も京都に比べて悪く、1日中硫黄の臭い(卵が腐った臭い)がして、海も硫黄により黄色に変色していて異様な光景でした。

硫黄で黄色に染まった海

 

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
一番重要な食べ物はどうしてたんだろ?

食べ物はなんと主食となるお米がなかったので、海で採れる魚や山で採れる木の実などを食べるしかありませんでした。

木の実(ドングリ)を持っているリス

でも唯一救いだったのは、成経の舅である平教盛(のりもり)から必要な日常品や食料が届けられていたことです。それでなんとか3人はまともな生活ができてました。

 

成経と康頼はなんとか京都に戻りたいという思いから、必死に赦免活動を行うようになります。

身内を通じて清盛に赦免を願い出たり、また千本の卒塔婆(そとば)に赦免を願う歌を書き記しそれを海に流したりと様々な努力をしました。

赦免の歌を記した千本の卒塔婆

一方プライドの高い俊寛は赦免活動など一切せず、2人とは距離を置いて生活をしていました。

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
赦免活動をしても何も変わらないと、そんな2人を呆れてみているような感じがしますね

 

でもこの活動が功を奏したのか、この後大きく明暗を分けることになります。

成経と康頼は許されて帰京を許されますが、俊寛だけは許されず島に取り残されることになります。

流罪となった藤原成経と平康頼は許されたのに俊寛はなぜ許されなかったのか?

鬼界ヶ島に1人取り残される俊寛引用元)立命館大学アート・リサーチセンター所蔵資料より

流刑にされ1年経ったある日、清盛の娘である中宮徳子(ちゅうぐうとくこ)の安産を祈願して、島流しにあった者の恩赦が決まりました。

待ちにまった迎えの船が島に到着しました。でもここで悲劇が・・

恩赦のリストには成経と康頼の名前はありましたが、俊寛の名前だけはありませんでした(泣

出発しようとする船に泣き叫びながら俊寛はしがみつきましたが、引き離され1人だけ島に取り残されることに。

船から引き離される俊寛
引用元)立命館大学アート・リサーチセンター所蔵資料より

 

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
なぜ俊寛だけが許されなかったの?

それには考えられる諸説が色々あります。

  • 成経と康頼が流した卒塔婆が安芸国厳島神社に流れ着き清盛の手に届いた
  • 成経は平教盛、康頼は平保盛と繋がりがあったため有利に働いた
  • 俊寛は成親や西光と同じく鹿ケ谷の中心人物だと思われていた
  • 俊寛は一切赦免活動を行ってなかったので清盛はそれを気に入らなかった

 

成経と康頼が鬼界ヶ島から流した千本の卒塔婆の内1本が、安芸国(現広島県)にある厳島神社に流れ着きました。卒塔婆には赦免を願う歌が書かれており、それを見た清盛は心を打たれたといわれます。

写真では見えませんが、ちょうど水の中にある大きな石に流れ着きました。

厳島神社にある卒塔婆石

 

俊寛はどのようにして亡くなったのか死因とお墓について

お墓と天国へ旅立つ犬

1人島に残された俊寛は、成経の仕送りが無くなったのでさらに悲惨な生活になります。そんな中でようやく心が救われる出来事が起こります。

それは過去に俊寛のもとで下働きをしていた有王(ありおう)が、わざわざ島にやってきてくれたのです。3年ぶりの再会で2人はものすごく喜び合ったといわれてます。

俊寛と有王の再会
引用元)立命館大学アート・リサーチセンター所蔵資料より

 

俊寛は早速気になっていた家族について有王に問います。俊寛が流罪になった時に家や家財を全て没収されていたので、母と2人の娘は奈良に隠れるように住んでいました。

そこで母と末娘はすでに病気で亡くなっている事実を知りショックを受けます。もうこれ以上生きていてもしょうがないと考え、断食をして自ら命を絶つのです。

嫁(チャン子)
嫁(チャン子)
結局は帰京できずにこの世を去ることに・・すごく切ない最期💧

有王は悲しみに暮れながら俊寛の亡骸を火葬しました。そして遺骨を持ち帰り高野山の奥の院に納めたとされます。

 

喜界島や伊王島には今も俊寛のお墓が残っています。

伊王島と喜界島にある俊寛のお墓

一番島流しにあった可能性が高いとされる硫黄島には、俊寛を祀る庵があります。残念ながらお墓っぽいものはありませんね。

硫黄島にある俊寛の庵

 

俊寛の生き残った娘のその後・・

猫の娘

残された1人の娘は12歳になると出家して、奈良の法華寺の尼僧となりました。

その後について詳しく書かれた資料はありませんが、恐らく俊寛の菩提を弔いながら生きていったのではないかと思われます。

 

こういった1人島に取り残されるという悲劇のストーリーがあったので、幸か不幸かその生き様は物語や舞台を通じて後世に知られることになりました。

それでは今回はこの辺で、最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>

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