今回は日本三大怨霊の1つとされる、崇徳上皇(元天皇)の怨霊について徹底解説していきたいと思います。
なぜ和歌好きで優しかった崇徳が怨霊と化してしまったのか?またその後朝廷にどんな祟りが降り注いだのか?
こういったことが知りたい方におすすめの記事内容になってます。
なぜ怨霊となり、どんな祟りが起きたのか?
父親からは自分の子供として認知されない、弟からは島流しの刑にされる・・こういったことの積み重ねで怨霊化し、京都の街を焼き尽くす大火事など多くの祟りが朝廷に降り注ぎます。
日本の三大怨霊と言えば『平将門』『菅原道真』『崇徳上皇』と言われていますが、この中でもやっぱり最恐なのは崇徳上皇だと思います。
それは崇徳の怨念が、明治に入るまで時代を超えて降り注いだからです。
この記事を読めば崇徳上皇の怨念の恐ろしさが嫌というほど分かりますよ!
崇徳上皇(元天皇)はとても優しい人だった?
まず崇徳上皇はすごく心が優しく、我慢強い人だったことは間違いないかと思います。
それは身内に何度も心を傷つけられ、精神的に落ち込むようなことをされても、それを受け入れ前を向いて歩いていくような人物だったからです。
まず生まれた時から不遇で、父親(鳥羽上皇)に自分の息子として扱われず冷たくされました。理由は祖父(白河法皇)の息子である可能性が高かったからです。
待賢門院璋子と白河法皇は不倫関係にあったとされています。
でも崇徳は白河法皇には気に入られていたので、5歳にして75代の天皇になります。
ここまではまだよかったのですが・・白河法皇が亡くなってから崇徳にとって最悪な方に傾いていきます。ここからは父親の鳥羽上皇が院政を敷き権力を握りました。
本来なら崇徳の子供である重仁(しげひと)が次の天皇になるはずが、美福門院得子との子供が76代近衛天皇として即位しました。
崇徳は自分の子供が天皇にならないと政治の実権を握れません。なので政治から離れて、得意だった和歌に没頭するようになり数々の素晴らしい作品を残しています。
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ここで転機が訪れ、なんと近衛天皇が17歳という若さで亡くなってしまいます。次こそは息子の重仁が天皇になれると崇徳も期待しましたが・・なんと選ばれたのは崇徳の弟にあたる後白河でした。
こんな態度を父親にとられても、崇徳は我慢して逆らうことなく和歌に没頭します。
このあと間もなく鳥羽上皇は亡くなります。崇徳にとっては自分の父親なので葬儀に訪れますが、近臣達に拒否されてしまいます。
最後に極めつけは弟の後白河天皇に、反乱を起こすようにわざと仕向けられます。こうして崇徳が起したのがあの有名な保元の乱です。
崇徳上皇(元天皇)は400年ぶりの流罪に!運命を決定づけた保元の乱について徹底解説
この乱に敗れて後白河に島流しの刑を命じられて讃岐国に流されます。
400年ぶりに島流しとなった崇徳上皇(元天皇)。配流先とそこでの生活は?
これだけ散々な嫌がらせをされても、我慢して耐えられる強さと思いやり(優しさ)を兼ね揃えているのが崇徳上皇なのです。
崇徳上皇(元天皇)が怨霊と化したワケについて
次にその優しい崇徳上皇(元天皇)が、怨霊化したワケについて語っていきましょう。ちなみに崇徳の怨霊は日本三大怨霊でも最強と言っても過言ではないです。
ちなみに上記の画は歌川芳艶により、崇徳が讃岐国で亡くなり怨霊になる瞬間を描いた一場面になります。
ひどい仕打ちの積み重ねにより、最終怨霊となってまで朝廷を呪うことになりました。それを順番にあげていきましょう。※前章と被る内容もありますがご了承ください
父親(鳥羽上皇)に息子として接してもらえなかった
崇徳は自分の父親である鳥羽上皇に、息子として接してもらえませんでした。
それは鳥羽上皇の祖父にあたる第72代天皇の白河法皇と、鳥羽上皇の皇后にあたる待賢門院璋子が不倫関係にあり、その時にできた子供が崇徳と言われているからです。
崇徳はこういった不運な境遇により、十分に父親の愛情を受けることなく育っていくことになります。幼い崇徳の心に大きな傷ができたことは間違いないです。
父親から数々の嫌がらせを受けた
崇徳は白河法皇には気に入られていたので、75代天皇に5歳の若さで即位します。この時鳥羽上皇ではなく白河法皇が絶大な権力を握ってました。
でも後ろ盾の白河法皇が亡くなってから崇徳の運命は暗転します。鳥羽上皇が権力を握り、院政をとり行うようになってからは最悪。
崇徳は天皇の座をおろされ上皇となり、異母弟の近衛天皇が即位することになります。
上皇といっても名前だけで、天皇の父親か祖父でないと院政を敷くこと(権力を握ること)ができません。
ここでまた流れが変わり近衛天皇が17歳という若さで亡くなってしまいます。崇徳はようやく息子の重仁が天皇になれる(自分が院政を敷ける)と期待しますが・・
ここでまた鳥羽上皇の嫌がらせがはじまります。よりによって出来の悪かった崇徳の弟である後白河を天皇に即位させたのです。
これにより崇徳の院政を敷く夢は完全に断たれ、絶望のどん底に叩き落されます。
弟(後白河)により島流しにされた
鳥羽上皇が亡くなると、今度は弟の後白河天皇との対立が表面化してきます。
この時から後白河側の方から、崇徳に対して露骨な挑発と追い込みをかけるようになります。
- 鳥羽上皇の亡骸と対面させない
- 検非違使を招集して崇徳に対する警戒の念をあからさまにみせる
- 鳥羽上皇が亡くなると初七日を崇徳を無視して行う
その中でも特に初七日は、亡くなった人の冥福を祈って行われる最初の重要な法要と言われています。
もうこうなってくると崇徳側は、嫌でも反乱を起こすしかなくなってきます。そして起こったのが『保元の乱』になります。
後白河天皇&藤原忠通 vs 崇徳上皇&藤原頼長
この戦いであっさり崇徳側は敗北してしまいます。源義朝や平清盛を味方につけた後白河側より圧倒的に兵力が少なかったからです。
藤原頼長は矢傷によって亡くなり、崇徳上皇は現香川県の讃岐国へ島流しとなりました。
天皇や上皇クラスで島流しとなるのは、淳仁天皇以来400年ぶりで誰もが予想できなかった極刑です。
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写経を奉納したが弟に送り返された
崇徳は讃岐国へ送られましたがまだ住まいの御所が完成しておらず、仮の御所である雲井御所で3年間過ごしました。
雲井御所は讃岐国司の綾野高遠(あやたかとお)の館で、ここでの生活は自由で穏やかでした。
近くの長命寺に的場を設けさせ近郊の武士を集めて射芸を楽しんだり、しょっちゅう近くの海岸や綾川を散策したりと平和な時が流れます。
そうこうしているうちに鼓岡(つづみがおか)御所が完成して、そちらへ移り住むようになります。
今まで綾高遠の奉仕を受けて恵まれた生活をしていたのが一転、不自由な生活環境に身を置くことになりました。綾高遠から離れ、粗末な丸太造りの御所で軟禁状態。
以降悲嘆に暮れる毎日を過ごすようになり、仏事にだんだんのめり込むようになっていきます。
そして3年がかりで五部大乗経(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経しました。乱を起こしたことを反省するだけでなく、戦死者の供養を行うためでもあったと言われてます。
参考までに1字毎に装飾を施した例として下記の様な一字蓮台法華経があります。いかに凄いか分かっていただけるかと思います。
引用元)京都博物館の一字蓮台法華経(妙法蓮華経 如来神力第二十一)
それを190巻もの分量を自筆したので、並大抵の苦労ではなかったと思われます。
書き終えた写経を父親の鳥羽上皇が眠る安楽寿院陵、もしくは都周辺に置いて欲しいとお願いしたところ、後白河天皇や近臣の藤原信西に拒否されてしまいます。
「写経に崇徳のどのような呪いが掛けられているか知れたものではない」と疑われていたからです。
写経を送り返された崇徳は激怒して、『日本国の大魔王となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる』と叫び、舌を噛み切りその鮮血で五部大乗経に呪いの言葉を書いたと言われています。
その意味するところは、「自分が怨霊となって日本を混乱させ、天皇(皇族)を民(一般市民)のようにし、逆に民を天皇のようにしてやる」というものです。
血で書いたこの呪いの文書は海底に投げ込みました。
それからは髪や爪を切ることなく伸ばし続け、柿色の衣を身に付けその姿は夜叉妖怪のようでした。下記歌川国芳画
それから崇徳は毎日のように朝廷(後白河)を呪い続け、生きていながら天狗になったとも言い伝えられてます。
怨霊となった崇徳上皇(元天皇)の祟りにより悲劇が
崇徳が亡くなり12年ほど経ってから、その怨霊が猛威を振るうようになってきます。
どのような祟りが起きたかと言いますと、下記のできごとが立て続けにおきました。
- わずか数か月の間に後白河院の近親者が次々と亡くなった
- 延暦寺の僧兵による強訴が起きる
- 大火により京都の町が3分の1が燃える
- 鹿ケ谷の陰謀が発覚し、後白河の近臣が次々捕まる
後白河院の近親者が次々に亡くなる
わずか2ヵ月ぐらいの間で後白河の近親者が次々に亡くなっていきます。
寿命で亡くなるならまだ仕方がないと思いますが、比較的若い年齢でみんな亡くなっていくのが何か引っかかるところです。
- 後白河の息子である二条天皇の妻『高松院姝子(30歳)』
- 後白河の妻で高倉天皇の母『建春門院平滋子(35歳)』
- 後白河の孫である『六条天皇(13歳)』
- 後白河の兄弟である近衛天皇の妻『九条院呈子(46歳)』
延暦時の僧兵による強訴
加賀国目代の藤原師経(ふじわらのもろつね)が白山末の山寺を焼いたことがきっかけとなり、比叡山延暦寺と争うことになりました。
僧兵が神輿を担いで強訴する事態となります。さらに悪いことにその神輿に平重盛の兵が放った矢が当って大変なことに・・
結果として騒ぎが大きくなり、多くの犠牲者が出てしまいました。
強訴とは?平安時代に僧兵が集団で朝廷に対して行った訴えや要求
大火により京都の街が3分の1燃える
安元の大火は京都の街のおよそ3分の1を燃え尽くし、1000人の死者が出たと言われているぐらい大規模な火災でした。
樋口富小路(ひのくちとみのこうじ)から出火した火は、一気に北西の方に燃え広がっていきました。丁度この日は南東方向に強い風が吹いていたのが重なり最悪なことに・・
「京都の歴史2-中世の明暗」学芸書林97頁より引用
結果朝廷の大極殿(正殿)まで燃えてしまいます。大極殿(だいごくでん)は、政治や儀式の場として使われた最も重要な建物だっただけに損失が大きかったです。
この大火は『太郎焼亡(たろうしょうぼう)』とも呼ばれ、崇徳と藤原頼長の怨霊によるものと認識し、二人をこれからどう供養すればいいのか議論されるようになりました。
鹿ケ谷の陰謀が発覚し後白河の近臣が捕まる
後白河院の近臣が次々と平清盛に捕らえられる事件『鹿ヶ谷の陰謀』が起きます。
これは後白河の近臣が、俊寛が所有する京都の鹿ケ谷山荘で集まり、平家打倒の計画を立てていたことが発覚した事件です。
主犯格の西光は死罪に、藤原成親は備前国(現岡山~兵庫県)に島流しとなりました。
もっとかわいそうなのは、俊寛・平康頼・藤原成経は鹿児島県の下に位置する鬼界ヶ島に島流しとなりました。当時は未開の地で、ここに流されるぐらいなら死罪の方がマシとの声もあったぐらいです。
この事件をきっかけに後白河院と平清盛の関係は悪化し、修復不可能となります。
ついに清盛が福原から兵を率いて京都を占拠し、後白河を幽閉して院政の機能をストップさせ政権を握ります。ここで初めて朝廷から武士に政権が移ることになりました。
後白河が崇徳に写経を送り返した時のことを思い出して下さい。崇徳は激怒して『日本国の大魔王となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる』と呪いをかけましたよね。
見事に『天皇を民(武士)とし、民(武士)を天皇としてみせる』という呪いが現実のものとなってます。
流刑先で崇徳上皇(元天皇)は亡くなったがその死因は?
これまで崇徳の死についてほとんど触れていませんでしたので、少し語っておきましょう。
崇徳上皇(元天皇)は46歳で流刑先の讃岐国で生涯を終えました。讃岐国で8年間過ごすことになり、結局京へ戻ることができず無念の最後です。
死因については2つの説があります。
1つは怒りで食べ物を口にせず、憤死または餓死したことが考えられます。
もう1つは暗殺説になります。
後白河の息子である二条天皇が、三木近安(みきちかやす)に崇徳の暗殺を命じて、殺させたという逸話が残ってます。
話では住まいである鼓岡御所から逃げ、綾川の岸辺にある柳の大木がある場所で殺されたと言われてます。
大木の根元に空いた穴の中に隠れたところを槍で突かれてしまいました。崇徳の隠れた姿が水面に映っていたため気付かれたとのことです。
殺害された柳田には、大正時代に建てられた石碑が残っています。
住所:香川県坂出市府中町5166
まとめ:崇徳上皇(元天皇)の怨念は時代を超える
崇徳上皇(元天皇)は自分の父親である鳥羽上皇には息子扱いされず、さらに弟の後白河天皇から島流しという高貴な身分としてはありえない厳罰を受ける・・こういったことが積み重なり、怒りと悲しみが崇徳を怨霊としました。
そして崇徳の呪いにより後白河の近親者がたくさん亡くなる、京を焼き尽くすほどの大火に見舞われる、極めつけは朝廷にあった政権が初めて武士に奪われます。
その後何百年もの間、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と武士が中心となり政を行う時代が続きます。
崇徳が呪いをかけた『日本国の大魔王となり、天皇を民(武士)とし、民(武士)を天皇としてみせる』という言葉が時代を超えて現実のものとなりました。
怨霊がホントに実在するのかどうかは分かりませんが、当時多くの人が恐れ鎮魂にあけくれていたのは間違いないです。昭和天皇や明治天皇までも慰霊☟
昭和天皇と明治天皇はなぜ勅使まで出して崇徳上皇(元天皇)の御霊を安らげようとしたの?
でも敬わないと祟りがあるから仕方なく敬うとか、崇徳はそんなことをして欲しかったんじゃないのではと個人的には思います。
そうじゃなくて自然にあの時は申し訳なかったと、身内同士ホントは仲良くやっていきたかったとそういった本心のところを問いたかったのではと考えざるを得ません。