今回は文武両道で天才といわれる後鳥羽上皇(天皇)について徹底解説していきたいと思います。
- 後鳥羽上皇ってどんな人?➔性格が知りたい
- 後鳥羽上皇の親、兄弟は?➔血縁関係が知りたい
- 後鳥羽上皇は何をした人なの?➔目立った実績が知りたい
- いつどこで亡くなったの?➔どのような晩年だったのか知りたい
などなど・・こういった方におすすめの内容となってます。
ただ実力がある反面、自信過剰な一面も。それが承久の乱を起こす引き金となり、結局敗れて隠岐に流され生涯を終えます。
この記事を読めば後鳥羽上皇が産まれてから亡くなるまでの生涯がバッチリ分かりますよ♪
それとスーパーエースになろうとしたのには実は理由があるのです。その辺もあわせて解説していきたいと思います。
それでは早速本文にいってみましょう。
後鳥羽上皇(天皇)とは?どんな人物(性格)なの?
1180年に生まれた後鳥羽上皇、諱は尊成(たかなり)で、鎌倉時代に活躍した第82代天皇になります。※諱は本名・実名
天皇在位期間(在位1183~1198年)から上皇院政期間(1198~1221年)まで、その人物像とあわせながらみていきましょう。
第四皇子ながら天皇に即位
父は第80代高倉天皇、母は藤原殖子で第四皇子として生まれました。祖父はあの大天狗といわれた後白河法皇です。
なんと平家が都落ちする際に安徳天皇と次天皇候補の守貞親王を西国へ連れ去ってしまいました。朝廷では天子の位は1日たりとも欠くことができないと議論になり、結局後継の天皇を選ぶことになります。
そこで第三皇子の惟明(これあき)親王と第四皇子の後鳥羽が候補としてあがります。
後白河法皇が二人の王子にあった時に惟明親王は泣いてグズりましたが、一方で後鳥羽は人懐っこく接してきたことから、皇位は『後鳥羽』が継ぐことになりました。
こうして安徳天皇が在位したまま、4歳で後鳥羽天皇として即位しました。※平家が滅亡して安徳天皇が入水自害するまでの2年間在位が重複
しかも天皇の証として必要な三種の神器が揃っていない状態での即位。草薙剣は安徳天皇と一緒に海に沈んで無くなってしまいました。
後鳥羽は三種の神器が揃わない、すなわち正式な天皇ではないことにずっとコンプレックスをもち続けます。
こういった引け目があったので、文武両道のなんでもできる天皇を目指しました。
後鳥羽天皇はなんでもできて天才と言われてますが、ものすごい努力家で一生懸命取り組んでいるからこそ結果を出せているんだと思います。
上皇になり院政を敷く
天皇在位期間は父の高倉上皇、祖父の後白河法皇、藤原摂関家の九条兼実、高倉上皇の側近である源通親(みなもとのみちちか)に権力を奪われており出番がありませんでした。
でも子の土御門天皇に譲位して上皇となった頃には、父と祖父は既に亡くなっており、九条兼実は通親に追い込まれ失脚してます。
そしてついにはその通親も亡くなり、83代土御門天皇➔84代順徳天皇➔85代仲恭天皇と3代にわたって23年間も院政を敷くことになります。朝廷での実質的な権力を握ることになりまさに敵無し。
文武両道で何でもできた後鳥羽上皇(天皇)
後鳥羽は上皇になってから様々な芸能活動に精力的に取り組んでいきました。天皇だと外出1つにしても多くの制限があり自由に動けなかったのでその反動もあります。
文化的な学芸では蹴鞠、和歌、琵琶(音楽楽器)などがあげられます。
あと貴族がやらないような武芸にも興味を持ちました。競馬や笠懸(かさがけ)など武士がたしなむような芸も上皇自らが率先してやっていきます。
特に和歌や蹴鞠は政治的に大きく影響し、公家は後鳥羽上皇に気に入られようと必死に技を磨いてアピールしたぐらいです。
ただ趣味という位置付けだけでなく、公家を統率させる狙いがあったとも言われています。
当然芸能面だけでなく財源も潤沢にありました。八条院領(はちじょういんりょう)や長講堂領(ちょうこうどうりょう)という膨大な荘園群を所有してます。
その他これまであった北面の武士に加えて、西面の武士と呼ばれる私兵を設置して軍事力の強化を行いました。
それに加え鎌倉方の京にいる武士(三浦胤義、大江親広)の多くを、官位と引き換えに京方へ引き込んでいます。
後鳥羽上皇(天皇)が歴史上有名なのは何をしたからなの?
後鳥羽上皇が歴史上で起こした一番有名な出来事としては『承久の乱』で間違いないでしょう。
鎌倉幕府3代将軍の源実朝が暗殺されてから、朝廷と幕府(武家)の比較的良好であった関係が一変します。
実朝に代わる将軍が必要なため、北条義時は後鳥羽上皇の皇子をこちらに迎え入れたいと提案し申し出ます。
そして皇子を鎌倉に行かせる代わりに、「寵愛する妾の亀菊が所有する荘園の地頭を撤廃しろ」という無茶苦茶な要求を突きつけてきます。
地頭とは幕府が税を取るために各地に設置している機関なので、そんな財源が減るような要求を飲めるワケがありません。
ここで義時は京に1000騎の兵を送り、武力による脅しで後鳥羽上皇を屈服させようとします。
鎌倉方の京にいる武士で大内裏を警護する源頼茂(みなもとのよりもち)が大内裏に火をつけて自害します。※大内裏とは天皇が政務や日常生活を行う私的な場所
こうなったのには色んな説があって、鎌倉方の頼茂が京方の討幕計画を事前に察知したことを警戒した後鳥羽上皇が、兵を送って頼茂の口封じをしようとしたとか・・
とにかくこの火災で大内裏の建物と、中にあった宝物が燃えてしまいました。これを修繕するのには莫大な費用が掛かります。
この費用を捻出するのに幕府に追加徴税をして、お金を集めようとします。それを義時が難色を示したのでついに『承久の乱』が勃発します。
後鳥羽は上皇である自分に、まさか弓を引かないであろうとたかをくくっていたので負けるとは思っていませんでした。
それが義時の姉北条政子の演説で19万もの兵が集まり大群で京に攻め込んできます。京方は藤原秀康を総大将にして対抗しますがボロ負けとなりました。
負けた後鳥羽上皇はなんと極刑で隠岐島へ島流しに、関わった武士や公家は処刑・流罪となりました。
承久の乱についてはもっと詳しく別記事で紹介 ☞ 乞うご期待
後鳥羽上皇(天皇)の晩年について
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇は出家をしたあと、隠岐島の③中ノ島(海士町)に島流しになります。
現在は当たり前のように船で渡っていますが、当時は西の果てにあり国境は朝鮮に近い辺境の地と思われてました。
結局流された1221年~亡くなる1239年まで京に戻ることなく、19年間隠岐で過ごすことになります。下記は京都市左京区にある後鳥羽上皇が眠る大原陵
隠岐での生活は都のように華やかではありませんでしたが、刀作りや和歌に力を入れており充実していたと思われます。
後鳥羽上皇は刀について博識で詳しく、諸国から刀鍛冶を呼び寄せて刀を作らせてました。上皇自らも刀を作り、16弁の菊花紋を彫ったとも。
和歌については『遠島百首』といわれる歌集を作りました。すべて隠岐を題材とした歌で京で作った優雅な作品とは違い、異郷の風景を力強く詠んだものが多いです。
一方都の歌に興味が無くなったわけでなく、書状(京↔隠岐)により互いに歌を詠み競い合う「歌合せ」を行ったとされてます。
島流しについてはもっと詳しく別記事で紹介 ☞ 乞うご期待
まとめ:天才が故に自分の力を過信してしまった後鳥羽上皇
今回は後鳥羽上皇(天皇)の人物像について徹底解説していきました。
後鳥羽上皇は歴代でもトップクラスの経済力と軍事力をほこり、文武両道でなんでもできてしまうほど優秀な人物でした。
でもそれがおごりとなり、自分の力を過信し『承久の乱』を引き起こすことに。自分は上皇(神レベル)なので誰も私に弓を引く者などいないと勝利を確信した結果・・
北条義時が率いる幕府軍に完敗して、隠岐の中ノ島に島流しとなります。
そして隠岐に流されてからは刀作りや和歌作りに力を入れ、比較的充実した生活を19年間送り生涯を閉じることになりました。
でも上皇自身は死の間際まで帰京を望んでましたが、それは叶いませんでした。
隠岐で島民の優しさにふれ上皇は感激したといいますが、やはり最後は生まれた地に帰りたくなったみたい。
ちょうど承久の乱が起きた時期は、幕府内では実朝が暗殺されたことで混乱を極め、摂関家の力にも陰りが見えはじめた時で、それに乗じて後鳥羽上皇の力が伸びたのも1つの要因としてはあります。
その辺を冷静に見極めができていたら隠岐に流されることもなかったし、朝廷の権力が幕府に完全に奪われるという事態にはならなかったでしょう。
それでは長くなりましたが、最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>