こんにちは、今回は鎌倉時代の流罪(島流し)に着目して解説していきたいと思います。
- 鎌倉時代の流罪は他の時代と比べて過酷なの?
- どんな人が流罪になったの?
- どこに流されたの?
などなど・・
こういった疑問をお持ちの方におすすめの内容となってます。
結論からいいますと、鎌倉時代は天皇や上皇、有名な宗教者など影響力のある人に効果的に流罪は適用されてました。
この記事を読めば鎌倉時代の流罪はどういった仕打ちを受けるのか?
あとどんな人が流されて、どのように生涯を終えたのか?バッチリ分かりますよ。
それでは早速本文にいってみましょう
鎌倉時代の流罪について
法整備が進んだ鎌倉時代、流罪はどういった刑罰だったのか順を追って説明していきたいと思います。
鎌倉時代の刑罰は?
北条義時の息子である泰時が、日本で最初の武家法『御成敗式目(貞永式目)』を制定しました。
最初は51カ条しかありませんでしたが、後に追加法という形でどんどん増えていくことになります。もちろんこの中に刑罰が定められており、流罪に関しても含まれてました。
大罪人は死刑か流罪ということで決まっていたみたいです。
代表的なものをあげますと下記のような行為になります。正確には財産があれば没収で済み、もしそれがなければ流罪という規定です。
- 人の悪口を言う
- 文章の偽造
- 他人の妻と不倫
- 窃盗や博打
- 人を殺したり、傷つける
人の悪口ってめちゃめちゃ以外だと思いますが、悪口が原因で殺人を含めた多くの犯罪が引き起こされると当時は思っていたからです。
文章の偽造は裁判の際によくされてました。それは自分有利になるように証拠書類を捏造する必要があったからです。
あとの罪は度合にもよりますが、明らかに悪だと分かるような内容ですね。でも不倫や窃盗、賭博に関してはそこまでするかなって感じ。
鎌倉時代の流罪はどこに送られるの?
流刑先については近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)と3区分に分けられ、基本的に平安時代の法典「延喜式」にならっています。
当時都があった京都市内を基点に近ければ近流、逆に遠ければ遠流というふうに定められていました。
近流 | 安芸国(広島) |
---|---|
中流 | 信濃国(長野~岐阜)、伊予国(愛媛) |
遠流 | 伊豆国(静岡~東京)、安房国(千葉)、佐渡国(新潟)、隠岐国(島根)、土佐国(高知) 等 |
罪が重ければ遠流にあたる佐渡国や隠岐国などの離島に流されてしまいます。
でも旧国名の日本地図を見ますと、近流(安芸国)と中流(信濃国)の距離差がそこまでないようですね。伊予国はまだ離島なので分かりますが・・
鎌倉時代の流刑先での生活は?
一般市民の場合は荒れた土地を開墾し、自給自足の生活を送る必要がありました。
当然ですよね国から食糧の支給はないですし、家族からの仕送りもありません。恩赦を受け元の地に戻るまでは、貧困生活ですがなんとか耐えないとダメでした。
逆に有名な上皇・宗教者になってくると、地元民や信者からの差し入れであったり、なんらかの庇護を受けて生活していくことになります。
やっぱり田舎の地元民からすれば、都から教養のある人が来るのは大歓迎だったみたいです。知らないことをいっぱい学び知ることができるので当然といえば当然。
次章では鎌倉時代に流された有名人を解説していきます。
鎌倉時代はどんな人物が流罪になったの?
上皇(元天皇)
鎌倉時代で1番有名なのは、承久の乱を起こして流罪に処された後鳥羽上皇(82代天皇)、土御門上皇(83代天皇)、順徳上皇(84代天皇)で間違いないかと思います。
それぞれの流刑先は下記のようになってます。
後鳥羽上皇 | 土御門上皇 | 順徳上皇 | |
流刑先 | 隠岐国 | 土佐国 | 佐渡国 |
この3方は天皇の位は譲っているものの、朝廷を牛耳っており影響力がありました。※この時の天皇は仲恭天皇
承久の乱とは後鳥羽上皇が中心となり、北条の鎌倉幕府を倒そうとした計画です。
幕府側は北条政子を中心に結束を固め、結果あっけなく朝廷側の後鳥羽上皇が敗北し流罪という結末になりました。仲恭天皇は流罪とはならず廃位
ホントは死刑にしたいぐらいの大罪ですが、上皇クラスにそんなことをすると前代未聞の出来事となり、世の中を動揺させてしまう恐れがあったことから流罪となりました。
それには「今後は幕府主導で政治を行うから二度と反乱など企むなよ」と見せしめ的な要素が強かったと思います。幕府としてはかなり思い切った行動に出ているのは間違いないです。
証拠としてこの3人は罪を許されることなく、流刑先で生涯を終えることになったことからも分かります。反幕府勢力を再結集させるだけの影響力がある上皇らを恐れたんでしょう。
宗教者
鎌倉時代に流罪となった宗教者では法然と親鸞が超有名です。流刑先は法然が讃岐国(最初土佐国)で、親鸞は越後国になります。
承久の乱後ようやく権力闘争が一旦落ち着き、今度は新しい仏教とその布教活動が盛んになってきます。
浄土宗を広めた法然が先駆けとして、鎌倉新仏教が民衆に広まっていきました。親鸞は法然の弟子にあたり、自らも浄土真宗という仏教を立上げ布教活動に力を入れました。
これまでも旧仏教として真言宗や天台宗がありましたが、信仰には仏典を学ぶ必要があり難しかったのです。
この点新仏教は念仏をひたすら唱えるだけで信仰できるという単純明快さが受けて、一般市民だけではなく公家や武士まですごい勢いで広まっていきました。
しかし勢いがよすぎて反感を買い、旧仏教や後鳥羽上皇から弾圧されて布教者である法然や親鸞は遠く地に排除されてしまいます。
後鳥羽上皇が寵愛する姫が、勝手に御所へ法然や親鸞の門弟を招き入れ宿泊させた。さらに無断で出家まで問題となった事件
結局法然と親鸞は後に許され帰京しています。基本的に宗教は反幕府の対抗勢力となるぐらいの影響力はない為許された感じです。
まとめ:鎌倉時代の流罪は主に影響力がある人に適用された
それでは鎌倉時代の流罪についてまとめていきましょう。
この時代ですが御成敗式目という武家法にそって流罪が適用されてました。
大罪を犯した際、まず没収する土地があるかどうかを確認して、無ければ流罪というパターンが多かったです。
でもこれはあくまで一般市民の場合であって、上皇や宗教者など影響力のある有名人については対応が変わってきます。
特に反勢力の拠点となる天皇や上皇は、遠流の離島に流して何もできないように閉じ込めておくのが当時の主流でした。
この鎌倉時代の流罪は一般市民を罰する目的というより、影響力のある人へ効果的に使っていたみたいです。
それでは今回はこの辺で、最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>