今回は島流しにより悲惨な運命を辿ることになった、順徳上皇(天皇)の生涯について徹底解説していきたいと思います。
- 順徳上皇はどういった人物なの?
- 上皇という身分なのになぜ島流しにされたの?
- 島流し先でどのように過ごしてたの?
- 結局故郷である京都に帰れたの?
- 順徳上皇の最後とお墓はどこにあるの?
記事ではこういった疑問にお答えしていきますので興味のある方はぜひどうぞ♪
順徳上皇は父親の後鳥羽上皇と起こした承久の乱に敗れ、佐渡へ島流しとなりました。そして故郷に戻れることなく流刑地で21年間過ごし、最後は自殺してこの世をさりました。
この記事を読めば順徳上皇が島流しになった理由から、その後の流刑先の生活までバッチリ分かりますよ。
それでは早速本文にいってみましょう
順徳上皇(天皇)とは?その人物像について
順徳上皇(天皇)は日本の第84代天皇になります。幼少の頃は守成(もりなり)と呼ばれていました。
土御門天皇の譲位を受けて、14歳で天皇に即位しました。これには父親である後鳥羽上皇の強い意向があったとされます。
人物としては勝気で激しい気性の持ち主で、鎌倉幕府に対しては特に反抗的でした。
禁秘抄(きんぴしょう)といわれる解説書を作ったので有名です。これは国家的な行事の作法や、天皇として学ぶべき学問・芸術に関して記載されている資料になります。
歴代の天皇もこの資料を参考に学びました。
これだけ秀才なのに、なぜもっと歴史上で語られないの?といいますと記録がほとんどないからです。これでは歴史学者が書きようがない💧
一説には順徳上皇が佐渡で亡くなる際に、自分に関わる資料を処分するように命令したとのことです。流罪人となった自分の存在自体をこの世から抹消したかったのかも・・
後鳥羽上皇と順徳天皇の関係を家系図で分かり易く解説
先程さらっと説明しましたが順徳天皇と後鳥羽上皇、その他兄弟や子供など取り巻く関係について一度整理しておきましょう。
家系図の赤点で囲われている箇所が後鳥羽系列になります。後鳥羽上皇が父親で順徳天皇は第三皇子で、兄弟には第一皇子である土御門上皇がいます。
順徳天皇はアグレッシブなのに対して、土御門上皇は穏やかで平和主義でした。ちなみに後鳥羽上皇は自分の性格に近い順徳天皇がお気に入り。
なので皇位は順徳天皇に移り、その子供である仲恭天皇に受け継がれていきます。
順徳上皇(天皇)は百人一首に選出されるぐらい和歌が得意
ここで人物紹介でも少しお話しましたが、順徳上皇は和歌が得意中の得意。父親の後鳥羽上皇を超えるほどの達人ともいわれてます。
和歌の師はあの藤原定家で、その実力は定家にも認められていました。その証拠に彼が作った小倉百人一首の大トリ100番を飾るのが順徳上皇の和歌になります。
百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
この歌の心情としては、永遠と思われた貴族の栄華も昔のこと。今は内裏の屋根にノキシノブがぶら下がっているぐらい廃れている。しのんでも、しのびきれない思いがするほど遥かな昔のことのよう。
このように百人一首にとりあげられているだけでなく、和歌を学ぶ為の歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』、家集としては『順徳院御百首』を後世に残しています。
順徳上皇(天皇)は承久の乱に敗れ新潟県佐渡へ島流しに
順徳上皇は父親の後鳥羽上皇が起こした承久の乱に加担した罪で、新潟県の佐渡島へ島流しになります。
討幕に全力を注ぎたいが為に乱の直前に子供に天皇の座を譲って(後の仲恭天皇)、自由に動きやすい上皇の身分になっていたぐらいです。
実は順徳上皇の祖母が平教子といいまして平家の生き残りになります。あと周囲にも平家の関係者がたくさんいてその影響を強く受けてました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝に平家は滅ぼされましたので、その幕府に恨みを抱くようになるのは割と自然ですよね。
こうして順徳上皇はわずかな共と佐渡に向かうことになります。まず新潟県長岡市の寺泊(てらどまり)まで行きそこから船で佐渡へわたります。
寺泊の史跡公園聚感園(しゅうかんえん)には、順徳天皇御遺跡保存碑が建っています。
順徳上皇は寺泊の地に、仮住まいの行在所(あんざいしょ)を設けてしばらく滞在したとされます。
順徳上皇(天皇)が島流しにされた佐渡での生活について
新潟の寺宿から船に乗って、最初にたどり着いたのが佐渡島の恋が浦(佐渡市豊田)になります。
順徳上皇が着船された恋が浦にはたくさんの石碑が建っています。
恋ヶ浦碑 | 順徳上皇が父親の後鳥羽を思って作った歌が刻まれている。『いざさらば磯打つ並みにこと問わむ 隠岐のかたには何事かある』 |
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順徳上皇の稗粥物語碑 | 稗(ひえ)の芋粥を地元の老婆からいただいた順徳上皇が、感謝して詠んだ歌が刻まれている。『これほどに身の温まる草の実をひえの粥とは誰かいふらむ』 |
東宮殿下御上陸記念碑 | 昭和天皇が皇太子の時に佐渡にわたられた際に建てられた記念碑。この地で生涯を終えた順徳上皇をしのばれました。 |
まず佐渡にわたってすぐの頃、順徳上皇はしばらく国分寺ですごしていました。何もない広い敷地に石碑がポツンと建ってます。
その後黒木御所に移り、ここで21年もの長い歳月を過ごすことになります。
樹皮つきのままの木材で造られていて、かなり粗末な建物だったといわれています。反乱を起こして刑罰を受けている身なので文句は言えません。
ここでひたすら得意な和歌を作りながら、帰京の日が来るのを待ち続けました。
佐渡で作った和歌がおさめられた『順徳院御百首』や、京都にいた頃から手掛けていた『八雲御抄』など作品を後世に残しました。
恋ヶ浦の順徳上皇石碑はこちら
仮住まいのあった国分寺跡はこちら
行在所の黒木御所跡はこちら
順徳上皇(天皇)の死因とお墓の陵について
帰京の日を待ち望んでいた順徳上皇は、結局それが叶うことなく46歳でこの世を去ることになります。
気になる死因ですが・・なんと自殺です。
北条義時とその子供の泰時に帰京を阻止され、「もうこれ以上は存命無益」と絶望し断食をします。ですがそれでは死にきれず、最後は額に焼け石を押し付けて命を絶ちました。
ちなみに第81代安徳天皇はおばあさんに抱えられて入水したので自殺ではありませんし、第75代崇徳天皇は憤死でこれもまた自殺ではありません。
順徳上皇は亡くなった翌日に真野御陵(順徳天皇御火葬塚)で火葬されました。この火葬塚は御陵と同格扱いで宮内庁管理となってます。
もともと上記の火葬塚を管理していた真輪寺(しんりんじ)が、県社に認められ『真野宮』に改称されました。順徳上皇、菅原道真、日野資朝(ひのすけとも)が祀られています。
火葬された後の遺骨は、佐渡から京都の大原陵に持ち帰られそこに納められています。大原陵のお墓は父親である後鳥羽上皇の遺骨も納められており、ようやく順徳は父親と再会することになります。
順徳上皇が火葬された真野御陵(順徳天皇御火葬塚)
順徳上皇が祀られている真野宮
順徳上皇と後鳥羽上皇のお墓である大原陵
順徳上皇(天皇)の子孫は現在でも佐渡島にいるの?
順徳上皇の子孫は現在でも佐渡にいる可能性はあります。それは配流先の佐渡で3人の子供をもうけたという記録があるからです。
- 慶子女王(よしこじょうおう)
- 忠子女王(ただこじょうおう)
- 千歳宮(ちとせのみや)
母親は京都から帯同した女房なのか、佐渡で娶った女性なのかは不明です。
あと佐渡だけではなく京都にも多くの子供を残しました。承久の乱の敗北により廃帝となった仲恭天皇、その他男子6人、女子2人の子供たちに順徳上皇の魂は受け継がれています。
まとめ:承久の乱で敗れ悲劇の生涯を送ることになった順徳上皇(天皇)
順徳上皇は承久の乱に敗れ佐渡島に流され、人生の約半分をこの地で過ごし生涯を終えました。
ずっと帰京を願っていましたが、北条義時と泰時の親子に阻止され結局叶いませんでした。
順徳上皇は学問ができ優秀でしたので、帰京させると影響力が大きく再び反乱の火種になることを恐れたのかもしれません。
最後は帰京が望めず絶望して自殺したとされますがホントにそうなのか?が私の意見です。
佐渡で地元民の温かさに触れながら21年間も過ごし、そして子供も3人できていたのでそこそこ幸せであったのではないかと思ってしまいます。
ということで事実は分かりませんが・・今もどこかで順徳上皇の子孫が活躍していることを願いながら終わりにしましょう。
それでは最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>