今回は日本の島流し(流刑・流罪)の制度について、分かり易く解説していきたいと思います。
- 日本の島流しはどんな制度か?
- 海外の島流しと比較して過酷なの?
- 日本にはない流刑植民地とは?
こういったことに疑問をお持ちの方にぜひ読んでいただきたい内容となってます。
結論からいいますと日本では島流しは死刑の次に過酷な刑で、古墳時代から明治時代まで続きました。でも海外の島流しの刑と比較するとマシかもしれません。
それが意外に過酷なことが分かってきましたので、海外のビックスケールな島流しと比較しつつ、その辺をお伝えしていければと思います。
記事を読み進めていただければ、昔日本ではこんな刑罰があったんだと興味が湧くこと間違いなしです♪
それでは早速本文にいってみましょう。
日本の島流し(流刑)制度とは?
そもそも島流し(流刑・流罪)とは、罪人を辺境や島に送る刑で必ずしも島っていうワケではないです。
日本では古墳時代から行われている刑で明治時代まで続きました。
紀元前である縄文&弥生の次の時代からなので、めちゃくちゃ昔から行われていたのが分かります。廃止されたのは明治時代で刑務所ができてからですね。
飛鳥時代の後期になると中国の唐から伝わった律令制をもとに、島流しを含めた日本の刑罰が制定されました。
日本の律令制で最初に作られたのは、『大宝律令(たいほうりつりょう)』という制度になります。
これで刑罰がしっかり決められ、例えば島流しなら近流・中流・遠流に分けられました。仕組みとしては罪が大きいほど京都から遠くなる遠流になります。もっと詳しくはコチラ☟
【読めば完璧に分かる!】島流し(流刑、流罪)とは?恐ろしい刑ってホント?
さらにその後に養老律令(ようろうりつりょう)という、大宝律令に続く律令として施行されました。
大宝律令と養老律令の違いについては、全般的に大きな差異はなく、語句や表現、法令不備の修正程度とされてましたが・・
でも近年研究が進むにつれて時代の変化に合わせた大規模な改正が行われ、養老律令によって内容・形式が整った法典が完成したとする新説が唱えられています。
日本の島流しは過酷?海外と比較してみた
何もない辺境の地(田舎)で生活できるのは間違いないですが、現在のように交通の便が良く、物資が多く出回っていた時代ではありません。
流された島によってはお米がなく、海で魚を釣ったり、海藻をとったりと大変な生活です。
こういうことから死刑の次に過酷な罪と言われるのが分かります。都から流されてくる人にとってはまさに生き地獄!
では海外の島流しと比較してどうなのか少し解説しておきましょう。
例1:中国と日本の島流し比較
まず日本に律令制を伝えた中国ですが、日本みたいに流刑地に島を選ぶことはありませんでした。
それは中国は日本に比べてめちゃくちゃ広い(数千キロ単位)ため、本土の中でも辺境の地に送ることで十分に追放刑が成立したからです。
この辺境の地ですが代表的なところをあげると蜀みたいな地です。三国志なら蜀は劉備が治めている領地で有名。
もっと昔の時代なら劉備の祖先である劉邦も、当時覇権を握っていた項羽に危険人物とみなされ、漢中(蜀)に左遷されていました。
ちょっと話がそれてしまいましたが、私的には中国の方が島流しの刑としては日本より過酷ではないかと思ってしまいます。
それは数千キロレベルの移動になるので、住む環境が全然異なりますし、あと距離が遠すぎて『もう戻れないんだぁ』という絶望感を抱えて生活することになるからです。
中国ではこの島流しは、中華民国の時代まで続きました。
例2:フランスと日本の島流し比較
次にフランスと日本の島流しを比較してみましょう。
なぜあえてフランスの国を出したのかというと、フランスの皇帝ナポレオンは2回も島流しをされたことで世界的にも知られているところなので例に出したかったのがあります。
他国に戦争に負けた際に1回目はエルバ島に流される ➔ その後脱出してフランスの皇帝に返り咲く ➔ また戦争に負け2回目はセントヘレナ島に流される ➔ この地で最後を迎える
エルバ島はフランスの首都パリから約900kmとまだ近いところにあります。
セントヘレナ島はフランスの首都パリから約7200km離れてます。アフリカ大陸の下側になり、かなり遠いのが分かっていただけますでしょうか。
仮にも皇帝でこの距離を流されるのは信じられません。
やっぱり海外の島流しは日本とスケールが違いますね!
海外にある流刑植民地とは?
まず植民地としての流刑地は日本にはありませんでした。これは海外のケースになります。
植民地とは他国の領土を支配して、そこに自国の文化や制度を広めることです。(経済・政治面を支配)
こういった他国の領地を支配していた国にイギリスがあげられます。イギリスは下記国を流刑地とし、当時囚人の流刑先が不足していた問題を解決しようとしてました。
- アメリカ
- 南アフリカ
- オーストラリア
この流刑植民地は1840年ぐらいまで続きました、日本なら江戸時代になりますのでかなり昔の話になりますね。
まとめ:日本の島流しは律令制に基づき厳格にやられていた
ではまとめていきましょう。
日本の島流し制度は、大宝律令や養老律令によって厳格に定められており過酷なものだったと想像できます。
刑罰の重さによっても近流・中流・遠流としっかり分けられてました。さらに流刑先では食べ物を自分で調達しないとダメで、生きるのに必死なのが分かります。
こんな状態なので当然住む家なんて綺麗なものではないです。
とはいっても海外と比較すると日本の島流しはマシかもしれません。
例えばフランスで島流しにあったナポレオンは皇帝にも関わらず、7200kmも離れた島に送られた記録があります。
こんな遠くに流されたら、孤独・恐怖・絶望しかないです。そもそもこんな遠い流刑地に来るまでに力尽きるのではと思ってしまいます。
それでは以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>
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