今回は日本の島流しの歴史について、始まりから廃止されるまでを解説していきたいと思います。
時代によって島流しという刑罰が、どう変わっていったか知りたい方におすすめの内容となってます。例えば・・
- 流刑先はどう変わっていったか?
- 流刑地での生活はどう変わっていったか?
- 島流しはいつ始まり廃止になったのか?
などなど他にも色々ありますが、こういったことを知りたい方はぜひ記事を一読してみてください。
結論からいいますと、島流しは古墳時代からはじまり明治時代で廃止になりました。時代の変化に伴い制度の内容が異なってきます。
この記事では島流しの始まりから廃止までの全体的な流れを、簡単に分かり易くまとめておりますので、知識0の人でもバッチリ理解することができますよ♪
それでは早速本文にいってみましょう
島流しの歴史について
島流しは遥か昔の古墳時代から行われてました。紀元前の弥生時代の次ですから文明がまだ全然発達していなかった頃からあったということです。
これは日本固有の刑罰ではなく、西洋ヨーロッパから東洋の中国・韓国などにも当たり前に存在してました。
パクるという言い方は語弊がありますので、参考にしたといっておきましょう。
古墳時代~平安時代の島流し
日本で最初に島流しが行われたのは古墳時代だと言われます。
でも当時は島流し(流罪・流刑)についてのしっかりした制度があったのか不明で、罪を言い渡す人の采配で決められていた可能性があります。
日本で流刑の罰則規定が定められたのは飛鳥時代になります。中国の唐から律令制が伝わりそれを元に作られました。
はじめて作られたのは飛鳥時代の『大宝律令』で、その後改良を加えられてできたのが奈良時代の『養老律令』になります。
刑罰の内容は罪の重さによって5種類に分けられ、流刑は死罪の次に重い刑とされました。
流刑を受けた受刑者は、罪の重さに応じて近流➔中流➔遠流と大きく3箇所に流されました。※都のある京都市内からの距離
この時代は交通網が発達していなかったので、島ではなく辺境地に送られることが多かったのです。むしろ島に送られるのは遠流にあたる重罪人。
その場所へは家族も同罪として引き連れていかないとダメでした。いわゆる連帯責任というやつですね。
そして流罪期間を終えると罪が許され普通の生活に戻ることができます。その際は田畑も与えられたといいます。
ただ一般市民はそうだったかもしれませんが、天皇クラスの流罪はそう簡単に許されなかったみたいです。
例えば淡路国に流された淳仁天皇は、流罪を許されることなく厳しい監視下で生活をされてました。
恐らく彼を擁立して反乱を起こす勢力を警戒したためにそうなったのでしょう。最終的に淳仁天皇は京に戻ることなく、寂しくこの地で自害いたしました。
鎌倉時代の島流し
鎌倉時代は『御成敗式目』という日本で最初の武家法に基づき、罪が裁かれました。
昔(古代)は本人が流罪になったらその家族まで連帯責任で同罪になってましたが、鎌倉時代からは共謀が認められない限り罪を犯した人だけになりました。
あと刑罰の特徴として神や仏をはばかって死刑は基本的に適用されず、流罪が最高刑でした。
流刑先の遠流、中流、近流区分については、平安時代に決められた延喜式(えんぎしき)にならっています。※延喜式とは律令の罰則を詳細にまとめた法典
この時代は一般人も当然流罪となってましたが、それより政治に影響力のある者に流罪を適用しようという傾向が強いです。
例えば鎌倉幕府に対して承久の乱がありました。これは後鳥羽上皇とその近臣達が、幕府が偉そうなので気に入らないと起こした反乱です。
でもあっさりと敗北してしまい、後鳥羽(82代天皇)・土御門(83代天皇)・順徳(84代天皇)の三上皇は流罪にとなります。仲恭天皇(85代天皇)は流罪とはなりませんでしたが廃位となりました。
ちなみに後鳥羽天皇と土御門天皇は父と息子、土御門天皇と順徳天皇は兄弟、そして後鳥羽天皇と順徳天皇は父と息子の関係にあります。
幕府としてはいつまた反乱を起こすか分からないので処刑にしたいのが本音ですが、上皇クラスを処刑にするのは前代未聞のことで世の中に動揺を与えることになってしまいます。
あと処分する側としても、上皇を処刑にするのは恐れ多いというのもあったでしょう。
鎌倉時代の島流しについて詳しくはコチラ☟
鎌倉時代の流罪(島流し)について徹底解説!どこに流されてどんな暮らしをしていたの?
室町時代の島流し
正確には鎌倉後期~室町時代の島流しになります。
流刑先から逃げ出し見事復活を果たした後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すことに成功して天皇中心のいわゆる『建武の新政』を樹立しました。
この新政権ですが順風満帆に行くと思いきや・・武士の猛反発をくらい、わずか3年で崩壊と悲惨なことに💧
ここで出てきたのが武士で源氏の棟梁である足利尊氏になります。室町幕府を設立し新たに『建武式目』を制定しました。この中にはもちろん流罪についての取り決めがしっかりと含まれています。
基本的に旧来の御成敗式目を模範にしていますが、条文のボリュームが3分の1ぐらいで中身が少なくなってます。運用しながら必要な法を随時増やしていくスタイルです。
この時代で流罪といえば、後醍醐天皇が隠岐へ流されたことで有名です。
北条の鎌倉幕府打倒計画が2度もバレて、天皇という高位にもかかわらず島流しになりました。
しかしこの頃各地における反幕府勢力の活発な活動があり、これらの勢力が後醍醐天皇を隠岐の島から脱出させます。
そして後醍醐が脱出したことでさらに討幕活動が盛り上がり、鎌倉幕府を滅亡に追い込むことができました。
またこの辺の熱いストーリーは別記事にて紹介していきたいと思います。
戦国時代の島流し
応仁の乱を境にして、戦国時代と称される群雄割拠の時代に入っていきます。
多くの戦国大名は自分たちの持つ領土支配を円滑にするため、独自の戦国家法に従って刑罰を実行しました。(法が一本化されておらずバラバラだったということ)
ただ独自の家法といっても大きくは2つに分類されていることがほとんどで・・
『御成敗式目』のように条文を配列した法典を用いる場合と、もしくは単行法令のような特定の問題に対して独立して制定された法があります。
単行法令は特定の問題に対して具体的な規定を設けることで、社会の変化にうまく対応することができたと言います。
ということで肝心の島流しについてですが法令で規定はあったものの、この時代はもっぱら死刑の法が多かったです。
島流し自体は辺境の地に流されるわけではなく、他の大名に預けられてその監視下のもとで生活していくスタイルでした。
一般庶民も多くは領国内の僻地に流されるだけで、流罪適用についてどこまで意味があったのか分かりません。※庶民の戦国時代においての流罪資料は少なく不明なところが多い
ちなみに天下人になった豊臣秀吉は流罪を多く用いたことで有名です。
江戸時代の島流し
続いて江戸時代の島流しになります。
江戸時代の資料(記録)はもの凄くたくさんありますので、ここでは概略だけ説明いたします。
江戸時代初期は意外にも刑罰がしっかり法典で決まっておらず、将軍の意向によって処罰が決められてました。流罪は他の大名に預け置かれる『大名預け』が一般的でした。
ようやく8代将軍・吉宗の時代になり『御定書百箇条』に103箇条にわたって刑罰が制定されます。もちろん流罪(遠島)についても含まれてました。
この時代は交通網が発達していたので辺境の地に送るだけでは罰にならないので、離島に流すのが一般的でした。
下記のように罪の重さによって流刑先は分かれてました。
罪の内容 | 流される距離 | 流刑先(伊豆七島) |
思想犯 | 遠流 | 八丈島 |
破廉恥犯 | 中流 | 三宅島 |
軽犯罪者 | 近流 | 大島、新島 |
思想犯のように国家に悪影響を与えるものは罪が重く遠くの島に流されます。逆にちょっとした軽犯罪だと近くの大島や新島でした。
これらは江戸の流罪者が対象で、京都・大阪などの西国は薩摩の離島や隠岐に流されました。
島での生活は親類縁者から仕送りがある一部の裕福な人物を除いては大変だったといいます。
とにかく島々では食料の自給自足が困難で、飢饉がしょっちゅう起こってたことから厳しい自然環境だったことが伺えます。
しかも流罪は終身刑なので基本的には島から出られることなく、罪人は絶望の日々を送っていたと考えられます。
将軍の代替わりなどで恩赦を受けて戻されることはありますが・・結局それがいつになるか分かりません
江戸時代の島流しについて詳しくはコチラ☟
【江戸時代の遠島は地獄!】島流しをされる場所やそこでの生活について徹底解説
明治時代の島流し
最後に近代国家「明治政府」の誕生により、島流しはどうなっていったのか説明していきましょう。
明治時代には『新律綱領』という新たな刑罰が制定されました。流刑期間については1年・1年半・2年の3等とされてます。
流刑先は北海道に1本化され、今までの時代と違い強制労働が科せられました。
この時代北海道は未開の地であり、北海道開拓に囚人たちの労働力を上手く利用していました。
そして刑期が終わるとその地の戸籍が与えられ普通に暮らすことが許されました。
その後明治41年に現行の刑法が施行され、これにより島流し(流罪)は完全に無くなりました。この頃になると全国に監獄が作られたのが大きな要因の1つです。
ここで明治時代の刑法についてまとめておきますと・・
仮刑律は一般的に公布されず、旧刑法は新律綱領を改良して制定されたものになります。明治時代だけでも4つも刑法が制定されてるのですね。
まとめ:時代によって変化する島流し
島流しは古墳時代からはじまり明治41年まで1500年もの間、日本の刑罰の1つとして存在してました。
時代や身分によって大きく流罪の中身が変化しているのが分かります。
でも共通して言えるのはいくら優遇されている大名でも、本土の生活に比べたら不自由なことは間違いありません。
今では辺境の地であろうが、離島であろうが交通網が発達していてすぐにどこでも行けますので、島流しという刑は考えられないですが歴史的にあったのは事実!
別記事でも島流しについて興味深い情報を、色々と発信しておりますのでぜひご覧くださいませ。
それではご拝読いただきありがとうございました<(_ _)>