今回は不遇な環境に生まれながらも前向きに生きた、崇徳上皇(元天皇)の生涯と遺産について徹底解説していきたいと思います。
崇徳上皇が生まれてから亡くなるまで、力強く生きたその生涯について網羅的に知りたい。また和歌など残された遺産について興味がある方におすすめしたい内容となってます。
この記事を読めば崇徳上皇についてしっかりと知識を深めることができて、現地に足を運びたくなること間違いなしです♪
それでは早速本文にいってみましょう。
崇徳上皇(元天皇)の読み方は?人物紹介エピソード
まずは崇徳(すとく)上皇の人物紹介をしておきます。
諱(いみな)は顕仁(あきひと)で、5歳にして日本の第75代元天皇になります。※諱は本名・実名を指す
しかーし順風満帆なのはここまでになります。それから悲劇の生涯を送ることになるとは、崇徳自身も思わなかったでしょう・・
そうなったのは実は、父親である鳥羽上皇の本当子供ではなかったことがきっかけです。
白河法皇と璋子が、なんと不倫をして出来た子供が崇徳だと言われています。ちなみに皇室の家系図上は《父:鳥羽上皇》と《妻:璋子》なっていてそのことは封印されてます。
絶対権力者の白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は待ってたと言わんばかりに崇徳に天皇の座を譲るように促します。
こうして鳥羽上皇の確実に血のつながりのある息子『76代近衛天皇』が誕生することになりました。
崇徳は23歳で上皇にはなりましたが権力を失ったも同然でした。院政を敷く(権力を握る)には自分の息子である重仁に継がせないとダメなのです。
こういった出来事が色々あり崇徳は政治の世界で活躍するのを諦めて、元々得意だった和歌の方に力を入れていきます。この時の歌壇(歌人のコミュニティ)は崇徳中心で展開されていました。
ここで再び朝廷内に波乱が起きます。17歳と言う若さで近衛天皇が亡くなってしまうのです。
今度こそ崇徳の息子である重仁かと思われましたが・・天皇になったのは兄弟の後白河でした。なんとしても鳥羽上皇は崇徳に権力の座を奪われたくありません。
それから間もなくして父親の鳥羽上皇が亡くなり、今度は崇徳上皇と後白河天皇という兄弟間での対立が表面化していきます。
まー当然そうなっていきますよね。本来なら重仁が継ぐべきでしたし、それに後白河は遊び人でどうしようもない人だったので崇徳が怒るのは無理はない。
それが次章で説明する保元の乱に発展していくワケです。
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崇徳上皇(元天皇)はなぜ保元の乱を起こしたの?
本来は崇徳上皇の息子「重仁」が天皇につくはずだったのに、後白河が77代天皇に即位したことで今度は兄弟同士の争いに発展していきます。
崇徳は今までしいたげられてきた不満が爆発したのと、後白河天皇が反対勢力を一掃するために崇徳が反乱を起こすように意図的に仕向けたのもあって『保元の乱』がついに勃発します。
そこに藤原摂関の兄弟での家督争い、さらに平氏と源氏も2つに分かれ乱が大きくなっていきました。
整理すると下記のように崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれます。
崇徳上皇側 | 後白河天皇側 |
藤原頼長(弟) | 藤原忠通(兄) |
平忠正(叔父) | 平清盛(甥) |
源為義(父) | 源義朝(子) |
勝負は意外と早くに決着がつき、勝利したのは後白河天皇側でした。
その結果、藤原頼長は戦死、平忠正と源為義は斬首、崇徳上皇は島流しの刑となりました。
死罪(斬首)は仏教の教えである「不殺生戒(ふせつしょうかい)」に反するということから禁止されてましたし、天皇や上皇クラスの流罪は淳仁天皇以来400年ぶりです。
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崇徳上皇(元天皇)の流刑先とそこでの生活は?
保元の乱で敗れた崇徳上皇は、現在香川県になる讃岐国に島流しにされることになります。
まだ住まいの御所が完成していなかったので、当地の庁官だった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮りの御所として過ごしました。他にも一説としては、仮御所は近くの長命寺とも言われておりその辺の真相は不明。
綾高遠が献身的に尽くしてくれたこともあり、ここでの生活は比較的穏やかだったといわれています。元天皇であったことでみなさん畏敬の念を持つのでしょうね。
綾高遠の娘である「綾の局」との間になんと子供までできました。流罪人とは思えない平和で幸せな時を過ごしてますね。
ここでようやく讃岐国にきて3年経った頃、崇徳上皇が住む御所『木の丸殿』が完成します。この御所は木の丸太で出来ていて、かなり粗末で狭い造りの建物でした。
鼓岡神社が木の丸殿の跡地となっています。敷地内には擬古堂(ぎこどう)といわれる、木の丸殿をイメージして造られた建物があります。
住む環境が変わるだけでなく生活も一変してしまいます。厳重な警備となり面会が厳しく制限されて、人の出入りも食事を持ってくるとき以外は許されていませんでした。
こんな状態なのでもちろん外にも出られず、ひたすら五部大乗経の写経に専念していました。
数年もの歳月をかけてコツコツと写経を完成させました。保元の乱を起こして多くの人を死なせてしまった反省の思いもあったのでしょう。
流刑先の讃岐国での生活についてもっと詳しく知りたい方はコチラ☟
400年ぶりに島流しとなった崇徳上皇(元天皇)。配流先とそこでの生活は?
崇徳上皇(元天皇)はなぜ怨霊と化したの?
崇徳上皇は流刑先の御所(木の丸殿)で一生懸命書いた写経を、父のお墓 or 都周辺に置いて欲しいと後白河天皇に送りました。
写経を送られた後白河は、呪いがかかっていることを疑いそれを送り返したことで崇徳の溜まりに溜まった怒りが爆発します。
そして『日本国の大魔王となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる』と叫び、舌を噛み切りその鮮血で返却された写経(五部大乗経)に呪いの言葉をかけました。
その意味は「自分が怨霊となって日本を混乱させ、天皇(皇族)を民(一般市民)のようにし、逆に民を天皇のようにしてやる」と恐ろしいものです。
それからは髪や爪を切ることなく伸ばし続け、柿色の衣を身に付けその姿は夜叉妖怪のようでした。
崇徳上皇は毎日のように朝廷(後白河)を呪いながら、間もなくしてお亡くなりになります。そして亡くなって12年ほど経ってから、その怨霊が猛威を振るうことに・・
偶然とは考えにくい下記のようなできごとが立て続けに起こりました。
- わずか数か月の間に後白河院の近親が次々と死亡
- 延暦寺の僧兵による強訴が起きる
- 大火により京都の町が3分の1が燃える
- 鹿ケ谷の陰謀が発覚し、後白河の近臣が次々捕まる
崇徳上皇の怨霊についてまとめた記事はコチラ☟
優しい崇徳上皇(元天皇)を怨霊に変えた!日本三大怨霊の1つとされる所以は?
特に鹿ケ谷の陰謀が発覚したのは大変な事件となります。朝廷(後白河)が武士(平清盛)を倒そうと密談していたのがバレて、激怒した清盛が兵を率いて京を占拠する事態に。
ここで初めて朝廷から武士に政権が移ることになります。
以降、徳川幕府が滅ぶ幕末まで武士の政権が続くことになります。ようやく時代が明治に突入し朝廷に政権が戻ることになります。
これからは天皇中心の政治が安定するように、明治天皇は崇徳上皇の怨霊と和解しようとしました。詳細はコチラ☟
昭和天皇と明治天皇はなぜ勅使まで出して崇徳上皇(元天皇)の御霊を安らげようとしたの?
崇徳上皇(元天皇)の死因について
崇徳上皇は46歳で流刑先の讃岐国で亡くなります。結局8年間この地で過ごし、故郷である京都に戻ることはありませんでした。
死因についてはハッキリしておりません。
1つは怒りで食べ物を口にせず、憤死や餓死したと考えられます。
他には暗殺説で、後白河の息子である二条天皇が三木近安(みきちかやす)に崇徳を殺害させました。☞崇徳上皇が暗殺された跡地
崇徳上皇(元天皇)を祀る神社 & お寺を紹介!ご利益があるかも♪
崇徳上皇にまつわる神社とお寺はたくさんあります。
それでは順番に紹介していきます。
行っておきたい神社
安井金比羅宮
京都にある縁切りで有名な安井金比羅宮になります。ここには紫色の藤がたくさんあったことから藤寺とも言われてました。
崇徳上皇はこの藤が大好きで、建物を修造して妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわせてました。
白峯神宮
京都にある球技全般およびスポーツにご縁がある白峯神宮になります。
島流しにより送られた讃岐国に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるために、その御霊を京都に移すように孝明天皇が命じたのをきっかけで建てられました。
鼓岡神社
崇徳上皇が保元の乱に敗れて現香川県の讃岐国に流されますが、亡くなるまで最後の6年間を過ごされた木の丸殿跡地が鼓岡(つづみがおか)神社になります。
高家神社
香川にある高家(たかや)神社は崇徳上皇の遺体を白峰山に運ぶ途中、休息の際に立ち寄った神社になります。
「血の宮」とも呼ばれていて、神社にあった石の上に遺体の入った棺を置いて休憩していると、棺から血が流れ始めたらしいです。
崇徳上皇にまつわる代表的な神社を紹介してきましたが、その中でもやっぱり白峯神宮は絶対に行っておきたいスポットの1つですね。
崇徳上皇の御霊を香川県にある白峯陵から京都に移すために、建てられたのが白峯神宮になります。
崇徳上皇は故郷を懐かしむ和歌を作ったり、雲井御所の前を流れる綾川を京都にある鴨川と呼んだりと京都が恋しくて仕方なかったことが分かります。
時代も明治に突入して政権は朝廷に戻り、歴史的に大きな変化があったのがこの白峯神宮が建設されたタイミングだと思います。一度は参拝に行ってみたいところです。
行っておきたいお寺
白峯寺
香川にある空海と円珍によって建てられたお寺で、四国88箇所なら81番札所にあたるところです。
このお寺の敷地内に崇徳上皇のお墓『白峯陵(しらみねのみささぎ)』と、崇徳上皇が祀られる『頓証寺殿(とんしょうじでん)』があります。ともに崇徳上皇を慰霊するために建てられました。
白峯陵はこの広い四国でも唯一の天皇陵になりますので、一度は行ってみる価値ありです。
天皇寺(高照院)
香川にある天皇寺(高照院)は四国88箇所の79番札所になります。白峰宮の別当寺で白峰宮のすぐ横にあります。※別当寺は神社を管理する為に置かれたお寺
もともと摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいんみょうじょうじゅじ)でしたが、後嵯峨天皇が崇徳院供養の役割を担うお寺としてからは『天皇寺』と呼ばれるようになりました。
崇徳上皇にまつわる神社とお寺をもっと詳しく知りたい方はコチラ☟
【縁切りで有名】崇徳上皇(元天皇)ゆかりの神社とお寺♪その魅力をお伝えします
崇徳上皇(元天皇)が眠っている気品漂うお墓を紹介!
前章でもちらっと出てきましたが、崇徳上皇が眠るお墓について紹介していきます。
崇徳天皇御廟
京都の祇園にある『崇徳天皇御廟』になります。
崇徳上皇は結局、京へ戻ることなく流刑先の讃岐国で無念の死を遂げることになります。その後、傍で仕えていた阿波内侍(あわのないし)が遺髪を譲り受けて、この地に塚を築き崇徳の御霊を慰めたと言われています。
崇徳上皇の亡骸は香川県にある白峯陵で奉葬されています。
白峯陵
崇徳上皇の亡骸が眠っているお墓『白峯陵(しらみねのみささぎ)』になります。
この御陵、先程紹介した四国88箇所の第81番札所白峯寺と同じ場所にあります。
崇徳上皇は京に戻ることなく讃岐の地で生涯を終えました。遺言に従って白峰山にある稚児ヶ嶽(ちがたけ)で遺体が火葬され、この地に白峯陵が建てられました。
都から遠く離れた場所にある天皇陵はこの白峯陵と、山口県下関にある安徳天皇陵、兵庫県淡路島にある淳仁天皇陵の3箇所だけなので非常に貴重な建造物になります。
崇徳上皇の御陵と御廟に行ってみた!詳しくはコチラ☟
【観光の下見にどうぞ!】崇徳上皇(元天皇)のお墓である御陵や御廟に行ってみた♪
まとめ:讃岐で最後を遂げるが多くの素晴らしい和歌を残した崇徳上皇
保元の乱に敗れて讃岐国に島流しになったりと、政治の表舞台では目立つことのなかった崇徳上皇ですが、幼い頃から得意だった和歌の場で活躍します。
この時の歌壇(歌人たちが集まるコミュニティ)は、崇徳上皇が中心となってました。
崇徳が藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)に命じてつくらせた『詞花和歌集(しかわかしゅう)』は歴史に残る大作となってます。
その他にも小倉百人一首に選ばれている歌で「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ(崇徳院)」は超がつくほど有名ですね✨
愛する人と一度は分かれても、また再開して結ばれるという男女の恋愛の歌になります。
個人的には心が離れ離れになった父親の鳥羽上皇と、また親子で仲良くやっていきたいという思いが詠われているように感じます。
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歌の魔術師崇徳上皇(元天皇)!百人一首の和歌を含めた多く作品から選りすぐりを紹介♪
それでは長くなりましたが、最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>