※有名な表紙の絵は明治大学刑事博物館貯蔵の遠島出船(江戸時代)
今回は江戸時代に行われた島流しについて徹底解説していきたいと思います。
この時代における島流しの資料は世の中にたくさんあって、何から話せばいいのか迷うところです。
その中でも記事では下記にフォーカスして紹介していきますので、興味のある方はぜひ一読下さい。
- 江戸時代の流罪は過酷だったのか?
- どこに流されたのか?
- 島流し先での生活は?
- また再び元の生活に戻れたのか?
- この時代に流された有名人は?
まず江戸時代の島流しとはどういったものだったのか簡単に言いますと、その流刑地に行くまでも地獄、そこでの生活も地獄。
この記事を読めば江戸時代の島流しが、他の時代に比べてどんなに過酷だったのかが分かりますよ。
あと島流し自体が歴史の表舞台でそんなに語られることがありませんので、こんな有名人も流されていたんだと驚きます。
それでは早速本文にいってみましょう。
江戸時代の島流し(遠島、流罪)について
冒頭でも言いましたが江戸時代の島流しについては参考にする資料がたくさんあります。
江戸時代の刑罰は?
これまで律令や御成敗式目など、ある程度流罪について規定が定められてました。
信じられないことに江戸時代初期はしっかりとした流罪を含めた刑罰が定められてなかったのです。どうしてたかといいますと・・将軍様のさじ加減で決められてました。
ようやく刑罰が定まったのがなんと八代将軍徳川吉宗の時代になります。『御定書百箇条』に取り決めが103ヵ条にわたって制定され、これによって罪が裁かれるようになりました。
刑罰ですが大きく下記6つに分類
- 生命刑
- 身体刑
- 自由刑
- 財産刑
- 身分刑
- 栄誉刑
流罪は自由刑に属してました。どんな罪状で流罪になるのかと言いますと・・
- 鉄砲を隠しもっていることが発覚
- 隠し鉄砲を発砲
- 密貿易をした船頭を匿う
- 幼女を強姦、怪我をさせる
- 僧侶が女性と交わる
- 邪宗の布教に携わる
- 邪宗に入信したり、その布教者を宿泊させる
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他にも博打、人殺し、放火など28の大罪に接触したら流罪確定になりました。
江戸時代の遠島とは?
先程から島流しや流罪、遠島など色々な言葉を使ってきましたが全て同じ意味合いになります。※他にも流刑、島送りなど
江戸時代では『遠島』という言葉が使われていました。
そして遠島が決まると島に出発するまで牢に入れられ、年3回しか出ない船を待つことになります。どの島に流されるのかが分かるのは出発の前日でした。
その際に家族は米20俵、麦5俵、銭20貫文、金20両を上限に差し入れを渡すことができました。
でも大多数の人は貧乏なので、差し入れが無一文の人がほとんど。こういった人達には200文の銭が支給されてました。※200文は4,000~5,000円
あと出発前の最後の晩餐はお頭付きの魚が出てきたりと豪華で、お酒も飲むことができましたので温情を感じますね。
そしていよいよ出発になりますが、この時代は家族は連れていけないのでここでお別れになります。
江戸時代の島流し場所とは?
江戸は百万都市にまで発展し人口が増え続け、それに比例して犯罪が急増。
そうなると犯罪者を入れておく牢屋がいっぱいになり、とりあえず流罪にして離島に流しておこうという裁きが必然と多くなりました。
この時代は交通が発達していたので、本土の辺境地へ送っても意味が無いので離島に送られるのが主流でした。
江戸より流刑になる人は近いとこから、大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の伊豆七島に流されました。当然ですが罪が重たいほど遠くの島になります。
大島、新島(近流) | 三宅島(中流) | 八丈島(遠流) |
軽犯罪者 | 破廉恥犯 | 思想犯 |
あと京、大阪、西国、中国方面の流罪人は、薩摩五島、隠岐、壱岐、佐渡、天草の三島に流されてます。
島にたどり着くまで疫病で半分以上亡くなったり、天候の悪化により船が沈んだりと、流罪は既に出発の時点からスタートしているのかもしれません。
江戸時代の島流し先での生活について
江戸時代の島流し先での生活はどうだったのかといいますと、他の時代に比べて1番過酷でした。
それは流される島全てにおいて食糧が不足していて、常に飢えとの戦いだったからです。
とはいっても飢饉になった場合、1番立場の弱い流人から食べれずに餓死していきました。
この現状を放ってはおけない島民は、『施餓鬼(せがき)』と言って作物を一通り収穫したら、流人達にその畑を開放して救済してたとあります。そこで残り芋をせっせと掘り集めて飢えを凌いでました。
もう1つ流罪に明確な期間が設けられておらず、いつ許されるか分からないので希望がもてませんでした。※基本的に終身刑で、何かめでたいことがあればトップの気まぐれにより特別に許される場合があった
ほぼ100%失敗するのに、自暴自棄になり島抜け(島から船を盗んで脱走)をする人が絶えなかったことからも分かります。
各島によって掟は若干異なってきますが、島抜けに関しては共通して重罪となり死罪とされました。
そうならないように5人組制度(5人1組に小屋を与えられ生活)という決まりがあり、もし1人が上記のような違法行為をした場合、連帯責任として全員が罰を受けることになりました。
そもそも流人に島抜けをされると、島の役人・島の名主・島民の全員が処罰を受けることになりますので、皆これを必死に阻止しました。
多くの仕送り受けている元大名の流人も飢えで苦しんでいたぐらいですので、我々が想像する以上に食べ物がなかったと思われます。
次章では江戸時代に島流しをされた有名人を紹介していきましょう。
江戸時代に島流しをされた有名人
江戸時代に島流しをされた有名人はたくさんいて、全員紹介したいところですがキリがありませんので1人だけにしておきます。
1番有名なのは先程少しお話した、元大名の『宇喜多秀家』で間違いないでしょう。
天下分け目と言われる関ヶ原の戦いで西軍8万人の副将を務めていた人物で、徳川家康率いる東軍に負けて最も遠い八丈島に流されることになりました。
前田家と島津家の助命嘆願運動がなければ死罪なるぐらいの罪でしたので、再び歯向かうことができないぐらいの場所に遠島されても文句は言えませんでした。
流罪先での生活は他の流人と比べるとまだマシだったみたいです。それは妻の実家である前田家から米や薬などの生活物資が送られていたからです。
でもこれだけ支援を受けていても、生活は苦しかったというエピソードが残ってますのでこれも紹介したいと思います。
秀家妻子に食事を持ち帰る
八丈島を取り締まる代官の家に秀家が招待された時の話になります。
代官が食べるのと同じ膳を出されて、秀家はお腹が空いているにも関わらず手を付けませんでした。
そして懐から古い手ぬぐいを出して膳の食べ物を包みだしました。
代官が理由を尋ねると・・
秀家は『このように豪華な食事は、この島で見たことがないのでぜひ妻子※に食べさせてやりたい』と答えたそうです。※八丈島で新たにできた妻子
代官はこの言葉を聞いて哀れに思い、同じ膳を妻子にも準備をしました。
秀家酒をめぐんでもらう
次はお酒を積んだ福島正則の船が難破して、八丈島に漂流した時の話になります。
お酒を少しでもいいから分けてくれと福島氏の家臣に懇願したみたいです。
秀家が言った言葉に『一杯の酒を傾ければ、今の憂さを晴らし、故郷の恋しさも忘れることができるだろうと』あります。
福島氏の家臣は大変憐れみ、酒1樽に干し魚を添えて与えました。
まとめ:恩赦が出るまで待ち続ける江戸時代の島流し
それではまとめていきましょう。
江戸時代の遠島(流罪)は『御定書百箇条』によって制定され、一般市民から大名まで身分を問わず多くの人が流罪の刑に処せられました。
流刑先は主に伊豆七島で、軽犯罪は近くの大島や新島、破廉恥犯は三宅島、思想犯は八丈島に流されます。
当然ですが罪が重いほど遠くの島に流され、1番遠い八丈島だと東京の都心から300kmも💧
そこでの生活は飢餓との戦いで、飢えで死んでいった人がたくさんいました。仕送りを受けていて比較的恵まれていた元大名の宇喜多秀家すら、あまりの空腹に「米の飯を腹一杯食べて死にたい」と述べた記録が残っているぐらいです。
流罪には期限がなく、将軍様の代替わりなどで特別に許されるぐらいでしかありません。
最終的に恩赦が6割の人に出たと言われてますが、この時点で死んでいる人がたくさんいましたので、半分も本土に帰れていないのが実情でしょう。
今回は1番過酷だったといわれる江戸時代の流罪について解説してきました。まだまだ語り尽くせない内容が多くありますので、別記事にて紹介できたらと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>