今回は島流し(流罪・流刑)をされたその後について解説していきたいと思います。
刑を受けると一生戻れないのか?それとも数年後また元の地に戻れるのか?気になりますよね。
こういったことが知りたい方はぜひ記事を読み進めてください。
結論からいいますと、特別なお許しがない限り島流し先で生涯を終えることになります。つまり戻れないパターンが多い!
ただ恩赦(特別な許し)が出て帰れたり、もしくは強引に脱走したりとこういった事例もあったみたいです。
記事では実際にあった歴史にもとづき、この辺の真相を語っていきます。なので島流しのその後についての理解が深まること間違いなしです♪
それでは早速本文にいってみましょう
島流しをされたその後は・・?
島流しをされたその後ですが、大きくは3パターンあります。
- 島流しをされたその地で生涯を終える
- 罪を許されて元の地に帰る
- 自力で流刑先から脱走する
罪の大きさにもよりますが反乱の首謀者やそれに加担した人を許すと、またいつ寝首をかかれるか分かりません。なかなか許すことができないのが想像できます。
例を挙げると後鳥羽上皇が、鎌倉幕府執権の北条義時を倒そうと起こした承久の乱が有名で広く知られているかと思います。
結局はボロボロに負けて隠岐に島流しになりました。60歳で亡くなるのですが、それまで19年間も島を出ることなく生涯を閉じました。
隠岐の中ノ島にある後鳥羽上皇火葬塚になります。
引用元:新陵墓探訪記より
対して流刑地から再起を遂げた人も少数いますので、次章ではそこにスポットを当てていきましょう。
島流しをされても復活できることも・・
島流しをされても事例は少ないですが、元の地に復活できることもありました。
それは許しを受けて帰れるか、もしくは強引に脱出して抜け出す場合のどちらかです。
日本の歴史で比較的有名なものを例に挙げて解説していきます。
恩赦を受けて復活
鹿ケ谷の陰謀は、平安時代の安元3年(1177年)に起こった、平家を倒そうと皆で集まって計画していた事件になります。
京都東山の鹿ケ谷、現在は京都市左京区にあたる俊寛の山荘で、陰謀が企てられていたので鹿ケ谷の陰謀と呼ばれてました。
でも結局はメンバーの1人多田行綱が、平清盛に密告したことで陰謀がバレてしまいます。
ここからが本題で、この時のメンバー3人(俊寛・平康頼・藤原成経)がとんでもないところに流されたのが物語のはじまりです。
鬼界ヶ島の中でもどこに流されたかハッキリしておらず、硫黄島と喜界島ではないかと言われてます。
月日が流れ、清盛は娘である中宮徳子の安産祈願をするにあたり平康頼と藤原成経を許しました。赦免活動がやっと実を結んだ感じです。
対して俊寛だけは許されることはありませんでした。理由は陰謀をたてた中心人物であるのと、赦免活動を行ってなかったのでその態度が気に入らなかったのかもしれません。
はじめから素直に赦免活動を行っていれば、運命は変わったのかもしれません。そもそも鹿ケ谷の山荘で密談するなって話ですが・・
自ら脱出して復活
時代は鎌倉末期になります。討幕計画がばれて、隠岐に島流しにあった後醍醐天皇の脱出劇が歴史上一番有名ではないでしょうか。
討幕を計画した背景ですが、北条の政治で苦しむ民を救う為だけではなく、一番は両統迭立(りょうとうてつりつ)の制度を廃止したかったことがあげられます。
両統迭立とは大覚寺統と持明院統から、天皇をそれぞれ交互に出す制度のことです。大覚寺統の天皇退位➔持明院統の天皇即位➔大覚寺統の天皇即位のような感じです。
ようするに大覚寺統の後醍醐天皇が、実子に皇位を譲位出来ないことを嫌がったワケ。持明院統が皇位をつぐと当然自分も権力を奪われます。
ということで近隣で海運業を営む名和長年に助けれられ隠岐を脱出し、その後船上山で旗揚げをして討幕を宣言します。
まとめ:流刑先から元の地に帰れたらラッキー✨
ということで島流しをされたその後について解説してきました。
恩赦によって流刑先から戻ってこられる者もいましたが・・
ただ反乱の首謀者にもなると、例え天皇であっても許されることがないのが分かりました。
元の地に復活するには後醍醐天皇みたいに脱走するしかありません。
ただ脱走するだけではこれまたダメで、時勢が討幕の流れになっている必要性があります。そうでないと幕府の威光を恐れて誰も助けてくれないです。
まあこんなパターンは特別なので、大概は寂しく生涯流刑先で過ごすことになっちゃいます。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>
他にも島流しについて興味深い記事がたくさんありますのでぜひ一読を