今回は崇徳上皇(元天皇)の運命が大きく変わった『保元(ほうげん)の乱』について徹底解説していきたいと思います。
- 崇徳上皇はなぜ保元の乱を起こしたのか?
- 崇徳上皇と後白河天皇はなぜ兄弟同士で争うことになったのか?
- なぜ武士や藤原摂関家を巻き込んでの大戦となったのか?
こういったことが知りたい方におすすめの内容となってます。
結果的に保元の乱を起こすように仕向けられた崇徳上皇は敗北し極刑の流罪となりました。天皇や上皇が流罪となるのは淳仁天皇以来400年ぶりになります。
皇族だけでなく、武士や藤原摂関家を巻き込んでの大戦となった保元の乱。それぞれどんな思惑があったのでしょうか?めちゃくちゃ気になるところです。
この記事を読んでいただければ保元の乱がなぜ起きて、最終的にどのようになったのか?分かり易く解説しておりますでバッチリ理解できますよ。
まずは保元の乱に登場する主要人物の関係性から説明していきましょう。
崇徳上皇(元天皇)と後白河天皇の関係性
天皇家系図をみると父親が鳥羽上皇、母親が待賢門院璋子で崇徳上皇と後白河天皇は兄弟関係になります。
でも実際は崇徳上皇の父親は白河法皇と言われており、父親だけが異なる形となります。
- 崇徳が第一皇子で75代の天皇(父親:白河)
- 後白河が第四皇子で77代天皇(父親:鳥羽)
本来順当にいけば崇徳の息子である重仁が次の天皇となるはずでしたが、鳥羽上皇の嫌がらせでどうしても崇徳の家系に天皇の座を譲りたくありませんでした。
だから76代近衛天皇が早くに死去したあと、77代の天皇には後白河が即位することになりました。
こういった背景があり、鳥羽が亡くなった後に崇徳と後白河の対立が表面化していくことになります。保元の乱に繋がっていくワケです。
崇徳上皇(元天皇)と平清盛の関係性
崇徳上皇と平清盛は直接的な関係はありませんでした。
ただ清盛の父親である忠盛の妻池禅尼(いけのぜんに)が、崇徳上皇の息子(重仁親王)の乳母でありましたので間接的には繋がりがありました。なので崇徳上皇は武家最大勢力の清盛が加勢してくれることを期待していたのは言うまでもありません。
でも池禅尼は保元の乱が起こると、どちらの味方をするのかで分裂していた平家ファミリーに後白河天皇の味方をするように提言します。
池禅尼は聡明な女性で、冷静に大局をみて崇徳上皇側の方が不利になると予想。いくら乳母だからといって情に流されず、平氏一族を守る道を選びました。
崇徳上皇(元天皇)はなぜ保元の乱を起こしたの?
崇徳上皇がなぜ『保元の乱』を起こしたのかといいますと、自分の息子が天皇になれず院政を敷くことが出来ないなど、父親である鳥羽上皇から散々嫌がらせをされて鬱憤がたまっていたのが1つ。
もう1つは弟である後白河天皇が、崇徳上皇が乱を起こすように意図的に仕向けたのがあります。
崇徳上皇が藤原頼長と反乱を起こして国家(朝廷)を傾けようとしている、他にも近衛天皇が17歳と早期に亡くなったのは彼らが呪詛をしたからだと根も葉もない噂を流しました。
丁度摂関家の藤原も忠通(兄)と頼長(弟)が家督で揉めていたので、これが加わり余計に争いの火種が大きくなっていきました。
さらにさらに平家や源氏の武家も2つに分かれて加わり大変な事態に・・
まとめますと下記のような構図で戦いの火ぶたが切られることになります。皇族、摂関家、武家それぞれの思惑が運悪く重なりました。
結果を言いますと勝ったのは後白河天皇側になります。
平清盛と源義朝の軍勢が圧倒的に多かったのに加え、崇徳上皇側は武家からその戦力差を埋めるために夜討を献言されますがそれを却下してしまい敗北に繋がりました。
却下した背景には、頼長が招集をかけていた奈良興福寺の僧兵の援軍を待っていたとされます。そして援軍が到着する間もなく、先制攻撃を後白河側からかけられあえなく敗北。
崇徳上皇(元天皇)は後白河天皇との争いに敗れ流刑に・・
敗北した崇徳上皇側は厳し処分をかせられてしまいます。
崇徳上皇は現香川県の讃岐国に流刑とされ、これは天皇・上皇クラスでは淳仁天皇以来約400年ぶりとなる極刑です。
400年ぶりに島流しとなった崇徳上皇(元天皇)。配流先とそこでの生活は?
平忠正と源為義は薬子の変以来約300年ぶりの死刑(斬首)となりました。長年行われていなかった死刑制度の復活です。
ちなみに藤原頼長は戦いの矢傷によって死亡したと言われています。
頼長は瀕死の状態で父親忠実のもとを訪れますが、面会を拒否され悲しみの中この世を去りました。忠実も会えば罪に問われるので、藤原家を守る上でも心を鬼にするしかなかったのです。
まとめ:崇徳上皇(元天皇)の運命が大きく変わった保元の乱
それではまとめていきましょう。
崇徳上皇は自分父親から嫌がらせで我慢が限界に達していたのと、後白河天皇の挑発に乗ってしまったことで『保元の乱』を起こしてしまいました。
そして下記のように皇族だけでなく、藤原摂関家、武家(平氏・源氏)を巻き込んでの大戦に発展していきました。
皇族 | 崇徳上皇 | 後白河天皇 |
藤原摂関家 | 藤原頼長 | 藤原忠通 |
平氏 | 平忠正 | 平清盛 |
源氏 | 源為義 | 源義朝 |
結果は軍事勢力の圧倒的差と作戦ミスが響き、崇徳上皇側が敗北してしまいます。
崇徳は流罪、頼長は戦死、忠正と為義は斬首で死刑となりました。
天皇や上皇クラスの流罪は400年ぶり、死刑は300年ぶりと厳罰に処されました。死刑制度復活に繋がり負の遺産を残すことになります。
そもそも崇徳が白河法皇ではなく鳥羽上皇の本当の息子であったなら、このような乱を起こすこともなく院政を敷けていたに違いありません。
生まれた環境は自分では選べないのでちょっと可哀そうですね。
それでは今回はこの辺で、最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>