今回は天皇・上皇という高貴な身分で、島流しの極刑になった崇徳上皇(元天皇)について徹底解説していきたいと思います。
崇徳上皇(元天皇)は・・
- なぜ島流しにあったのか?
- どこへ島流しにされたのか?
- 流刑先にてなぜ妖怪となり恐れられたのか?
こういった質問にお答えしていきたいと思います。
崇徳上皇は保元の乱に敗れて現香川県の讃岐国へ島流しになりました。こういった悲劇の積み重なりが崇徳を妖怪に変貌させました。※実際に妖怪になったわけではありませんがそれだけ恨みが深い
この記事を読めば上皇という身分でなぜ島流しにされたのか?また妖怪になるまで深く恨みを抱くようになったのかが分かりますよ。
それでは本文で悲劇の人生を追っていきましょう。
崇徳上皇(元天皇)はどんな人?
崇徳は第75代天皇になります。表向きは鳥羽上皇が父でその第一皇子となってますが、白河法皇の実子ではないかと言われてました。
ようするに鳥羽上皇の妻である璋子と祖父の白河法皇が親密な関係で結ばれており、できた子供が崇徳になります。
だから鳥羽上皇は崇徳のことを嫌っていて、逆に白河法皇は崇徳のことをすごく可愛がってました。その影響もあって5歳という年齢で第75代の天皇につくことになります。
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可愛がられている崇徳は順調に天皇位につき、そのまま順風満帆の人生を送っていく予定でしたが・・それが一転します。
なぜ崇徳上皇(元天皇)は島流しになったの?
白河法皇が亡くなってから鳥羽上皇の院政が開始されると、崇徳にとって情勢は悪い方にどんどん傾いていきました。
まず異母兄弟の近衛を次の76代天皇としました。本来なら崇徳の子息である重仁(しげひと)が天皇となるのが筋です。
崇徳は天皇位を退き上皇とはなりましたが、結局のところ重仁が天皇にならないと権力をふるうことができません。院政を敷けるのは子供の父親(元天皇)かおじいちゃん(元天皇)に限られるからです。
しかしここでチャンスが・・近衛天皇が17歳の若さで亡くなってしまうのです。次こそ重仁が天皇と思いきや、実際なったのは崇徳の弟『後白河』でした。
崇徳の子孫は、以後の天皇位につく望を完全に断たれてしまったことになります。
鳥羽上皇が亡くなったあと、今度は崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化していきます。後白河にとって崇徳は邪魔な存在ですので当然と言えば当然。
そうして起こったのが保元の乱になります。
後白河天皇と藤原忠通 VS 崇徳上皇と藤原頼長の戦いであり、後白河天皇側が見事勝利しました。
それにより本来なら死刑となるぐらいの大罪ですが、なんとか身分に守られて崇徳上皇は島流しの刑となりました。
ちなみに藤原頼長は矢を受けて戦死、あと崇徳子息である重仁は出家することにより罪を免れました。
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流刑先『香川讃岐国』での崇徳上皇(元天皇)の足取りと暮らしについて
崇徳は現在の香川県である讃岐国へ流されることになりました。讃岐国でのその足取りと暮らしをみていきましょう。
松山の津に着船
まず香川県坂出市の『松山の津』に船で到着します。
はっきりとこの場所に着いたという手がかりが残っておらず、遺跡や立地から雄山の麓が松山の津ではないかと推測されており、現在石碑が建てられています。
住所:香川県坂出市高屋町1500
昔はこの陸地が海岸線だったことから地形が大分変わってますね。
雲井御所(長命寺跡)
讃岐国松山の津に崇徳が到着した時点では、まだ御所が完成してなかったので当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとう)の邸宅を仮の御所としてました。
いわゆる雲井御所で3年もの間過ごすことになります。場所は松山の津から意外と近くて、直線で2km弱のところにあります。
雲井御所という名前の由来は、ここで詠んだ歌《ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて》にちなんでそう呼ばれてました。
崇徳上皇が都を懐かしく思いながら、雲井御所で過ごした日々を詠んだものになります。都を追われた後も、都を懐かしく思い続けているという心情を表しています。
前に流れる綾川を京都の鴨川と呼んでいたぐらいですので、生まれ育った故郷が恋しかったのでしょう。
住所:香川県坂出市林田町770 雲井御所跡
綾高遠の娘である綾の局が、上皇の身の回りの世話をしていたと言われてます。実はこの綾の局との間に皇女と皇子が誕生してます。
残念ながら皇女は幼くして亡くなりますが、皇子は「顕末」と名付けられ綾家の跡継ぎにされました。それぞれ姫塚と菊塚としてお墓が建てられてます。
- 姫塚住所:香川県坂出市西庄町411−3
- 菊塚住所:香川県坂出市府中町
他にも一説として、雲井御所は長命寺であったという記録も残されています。
それは仮御所として綾高遠の自邸では失礼にあたるので、近くの長命寺に崇徳上皇を移されたという内容です。
長命寺自体は昔450メートル四方の敷地に仏閣が並ぶ大きな寺院でした。でも戦の際に火事となり、今では跡形もなく一帯は田んぼです。
上皇はこの境内に近くの武士を集めて射芸を催したり、歌を詠んで過ごしていたとされてます。
住所:香川県坂出市林田町
石柱には崇徳がこの辺りで過ごしていたことを示す「崇徳天皇御駐蹕長命寺趾」の文字が刻まれています。
鼓岡神社(擬古堂)
讃岐国に来て3年後にようやく崇徳上皇の御所『木の丸殿』が完成し、そちらへ移ることになりました。名前の通り木の丸太で造った御所で、かなり粗末な造りであったとされています。
雲井御所から約4km離れた、現在の鼓岡神社がその跡地になります。先ほど紹介しました菊塚のすぐとなりですね。
住所:香川県坂出市府中町乙5116 鼓岡神社
鼓岡神社の敷地内には擬古堂(ぎこどう)と呼ばれる、木の丸殿をイメージして造られた貧しい建物があります。崇徳上皇の750年祭に合わせて記念に造られました。
実際はこの4分の1ぐらいの大きさだったみたいです。木の丸太では再現できていなかったですが、お世辞にも綺麗とは言えませんね。
木の丸殿で厳重な警備の軟禁状態にあった崇徳上皇は、毎日どのように過ごしていたのでしょうか?
真面目で質素に生活しており特に・・
法華経(ほけきょう)、華厳経(けごんきょう)、涅槃経(ねはんきょう)、大集経(だいじつきょう)、大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)の五部大乗経の写経に専念してました。
保元の乱を起こした反省と、この乱に関わって死んでいった人達の供養を行うためだったと言われています。
崇徳は数年かけて写経が完成すると、京都の安楽寿院に奉納して欲しいと後白河に送ります。
ところが受け取った後白河はこの写経には呪詛の念が込められていると疑い、非情にも崇徳に送り返しました。
妖怪の天狗と化した崇徳上皇(元天皇)の祟りとは?
この対応に激怒した崇徳は、舌を噛み切りその鮮血で『日本国の大魔王となり、天下を悩乱に陥れる』と書いて悪魔に魂を売り払いました。
それから髪や爪を切ることなく伸ばし続け、妖怪夜叉のような外見であったと伝わっています。(下記画は歌川国芳作)
また崇徳は毎日のように後白河を呪い、生きながらにして天狗になったとも言われています。実際に天狗は逸話だと思いますが、それだけ崇徳の怒りが激しかったということなのでしょう。
こうして崇徳の怒りが静まることなく46歳で亡くなり、京へ戻ることなく讃岐国で生涯を終えました。切ない💧
このあと崇徳の祟りにより、後白河が下記のような災難に襲われるのはもう少し先の話になります。
- 後白河の近臣が次々に不幸になっていく
- 安元の大火により京の3分の1が燃える
- 延暦寺の強訴が起きる
ちなみに強訴とは武装した僧兵が、神木や神輿を担いで朝廷に対して要求を行うこと。ばちが当たることを恐れていた当時は効果的でした。
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まとめ:400年ぶりに島流しとなった悲劇の上皇(元天皇)
それではまとめていきましょう。
保元の乱に敗れた崇徳上皇(元天皇)は、現香川県の讃岐国に流されてしまいます。
天皇や上皇という高貴な身分では島流しは400年ぶりということで、いかに厳しい処分が下されたかが分かります。
ここからが悲劇の始まりで、島流し先で軟禁状態にあって質素な生活。一生懸命書いた写経を京都に奉納しようとしても後白河に突き返される。
ついに積み重なってきた怒りが爆発して、精神が崩壊し妖怪の姿となり、毎日朝廷(後白河)を呪いながら46歳で亡くなりました。島流しにあって8年後のことです。
・・崇徳が亡くなって数年後、数々の災難が後白河に降りかかります。近臣の不幸、京都の大火、強訴などなどこれらは崇徳の怨霊の祟りとして恐れられました。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>
次に怨霊化した崇徳上皇について、より詳しく解説していきたいと思います。
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