圧倒的に男性の島流し(流罪)が多い中、当然ながら女流人も存在してました。
今回は女流人一本で解説していきたいと思います。
全時代を通して女流人はいましたが、江戸時代が最も数多くの興味深いエピソードが残っています。
- そもそも島流しって女性でもなるの?
- どんな罪で島流しなるの?
- 島流し先での生活はどんな感じ?
- 島流しになった有名な女性はいるの?
などなど・・こういったご質問お答えしていきます。
男性でも生き抜くことが難しい流刑先で、か弱い女性はどうやって生き延びていったのか?
記事を読めばこの辺がバッチリ分かりますよ♪
それでは早速本文にいってみましょう。
女の人でも島流し(流罪)になるの?
流罪は男性だけでなく女性にも適用されました。
なんと日本史の記録に残る流人第1号は女性になります。
でも全時代を通して多かったのは江戸時代になります。一般人から有名人まで多くの記録が残っています。
それでは次章から流人となった女性たちを紹介していきましょう。
流人第1号 皇女の軽大娘
女性の流人で有名なのは、天皇家の若き皇女で大変な美女『軽大娘皇女(かるのおおいらつめひめみこ)』になります。
日本史の記録に残っている中で流人第1号なので当然ですよね。
なぜ流罪になったのかと言いますと、実の兄妹同士で愛し合うことで近親相姦の罪に問われたからです。
皇太子は多くの兄妹がいて、それぞれ別の乳母に育てられたので一緒に生活していた訳ではありませんでした。
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘皇女の近親相姦を訴える者がいて、允恭天皇が太子に問いただすとその事実を認めました。
それで皇太子は跡継ぎのため罰せられず、軽大娘皇女が代わりに四国の伊予に流罪となってしまったのです。
物語はこれで終わりではなくその後、允恭天皇が亡くなり弟の穴穂皇子が謀反を企て、木梨軽皇子は同じ伊予国へ島流しとなります。
ここで2人は再開!めでたし✨だったらよかったのですが・・
その後穴穂皇子が追手を伊予国に差し向け、それを悟った木梨軽皇子と軽大娘皇女は自殺を図りました。
このように古代の流刑は一般市民の刑罰というより、高貴な特権階級の刑罰であって政治的な思惑が濃厚でした。
ここからは江戸時代の女流人たちの話になります。この時代は圧倒的に流人の数が多く、興味深いエピソードがたくさんです。
キリシタンの女流人 おたあ・ジュリア
女流人としては大奥のキリシタン『おたあ・ジュリア』もかなり歴史的に有名な人です。
あの家康の側室になることを何度も断り、さらに当時禁止されていたキリスト教を棄教することを拒否したことで流罪となりました。
少し人物像を説明いたしますと
小西行長が朝鮮出兵の際に拾った孤児(当時5歳くらい)で、気品の高さから朝鮮貴族の娘ともいわれてます。
キリシタン※として自分の娘を受洗させ大切に育てるも、関ヶ原の戦いで小西家が滅亡すると家康の元(大奥)で仕えることになります。※小西家は先代からキリシタン
ということで大島への島流しとなり、そこで負けずに布教活動をはじめました。
結局布教活動を辞めずに役人が手を焼いたのと、再度家康の「側室になれ」という命令を拒否したのが原因で大島から新島へ流されます。
まだまだ続きます今度は神津島へ・・次々に遠くの貧しい島に島替えをさせられますが、それでもおたあ・ジュリアは折れることなく布教活動をし続けます。
最後はこの神津島で信仰を守り通し、その後天に召されることになります。
神津島の流人墓地にあたあ・ジュリアの墓があり、毎年5月にカトリック信者が訪れジュリア祭が行われてます。
引き続きまして一般人も多く流されてますので、少しお話しておきましょう。
大島の女流人シカ
大島に流された女性『シカ』の話になります。舅毒殺未遂の罪で流罪となりました。
事件の背景を説明しますと
舅が用事で八王子に出かける途中に持っていってた弁当を開けたところ、毒トカゲが入っていたのが事件の発端になります。
それで弁当を作ったシカが疑われ、まったく身に覚えのない罪で大島に島流しになってしまいました。
大島に流されてからは、島の名主のもとで忠実によく働きました。特に子供をかわいがったみたいです。
シカの日々の行動から毒殺などするような人間ではないと悟った名主は、島の役人に罪を許してもらえるように働きかけてくれました。
それが功を奏して、島にきて13年の月日が流れましたがようやく御赦免となり元の地に戻れました。
でも現実はこういったハッピーエンドではなく、島で力尽きる人が多かったです。次章では悲しい結末を迎えた事例についても触れておきます。
女流人と吉原遊女
実は島流しをされる女流人には吉原遊女が多く、どの島にも1人や2人いました。
その中で八丈島に流されたお豊と花鳥という遊女の話をしたいと思います。
お豊は新吉原京町2丁目伊八店遊女屋に在籍していて、八丈島に流罪なった時はなんと15歳でした。
お客さんを簪(髪飾り)で刺殺してしまったためです。本来なら死罪となるはずですが、刺されたお客さんも悪かったらしく遠島を申し付けられてしまいました。
島での生活はといいますと、多くの男流人相手に体を売って食糧を得たりとやりくりしてました。その内男たちを顎で指示するような横柄な態度をとってたと言います。
やがて7年の月日が流れ、花鳥という吉原遊女が同じ八丈島にやってくることになりました。歳はお豊が来た時と同じ15歳の遊女です。
自分より若い強敵が現れて、女同士の熾烈な戦いが始まりそうな感じでしたが・・意外と仲良くやっていたみたいです。
でもそれから8年後に事件が起きます。花鳥が佐原の喜三郎という男と島抜けをはかり、八丈島の脱出に成功したのです。
腹が立ったのはお豊で、自分に内緒で島抜けしてさらに成功しているのが許せなかったみたいです。
そこで「それなら私もやってやる!」と意気込み、自分のところに通ってくる男を6人を口説いて島抜けを決行。
しかし計画を練って夜に漁船を盗み島を出たところ、八丈島周辺の潮の流れが早く一晩中ぐるぐるその辺を廻っていただけでした。
夜が明けるとすぐ役人に見つかり、お豊は島牢に入れられその後銃殺刑になりました。
最後にお豊は「死んだら毒虫になって、島の作物をみんな食い荒らしてやるぞ、おぼえておけ」と叫びながら撃たれました。
不思議ですがその年、島に害虫が大発生して作物の収穫量が半減。そしてお豊の祟りだと島民から恐れられ、その虫は「お豊虫」と呼ばれました。
まとめ:一般の女性から高貴な女性まで島流しに・・
それではまとめていきましょう。
女性の流罪は天皇家の若き皇女から一般市民の吉原遊女まで、幅広い層に執行されていた刑になります。
島流し先での生活は男性と同様で貧しく、食べるものに困ってました。
ただ女流人の方がたくましく、時には男性を利用して要領よく生きていたような感じがしますね。
ということで今回は女流人特集ということでまとめてみました。最後までご覧いただきありがとうございました<(_ _)>