今回は承久の乱の敗北により島流しとなった『土御門上皇(天皇)』の生涯について徹底解説していきます。
- 土御門上皇の人物像
- 土御門上皇が配流された理由
- 配流先での生活、またその後亡くなるまでの生涯
- 土御門上皇ゆかり地(火葬場、お墓など)
- 土御門上皇の子孫
これらの内容が知りたい方は、ぜひこのまま本文を読み進めてみてください。
承久の乱の巻き添えを食らう形で、土御門上皇は土佐(途中から阿波)へ配流になります。自身は流刑地で生涯を終えますが、息子が嵯峨野天皇として即位しその血筋は残り続けることになります。
記事では承久の乱で、島流しをされてから亡くなるまでを分かりやすく解説していきたいと思います。
土御門上皇はおっとりしていて何か抜けているような人物の印象を受けますが、実は冷静沈着で頭が切れる一面も・・そんな人物の魅力もあわせてお伝えしていきますよ♪
それでは本文にいってみましょう
土御門上皇(天皇)とは?人物像について
『土御門(諱は為仁)』は第83代の天皇。後鳥羽上皇の第一皇子で、母親は源通親(みなもとのみちちか)の養女で源在子(みなもとのありこ)。※諱は本名・実名
後鳥羽上皇の跡を継ぎ4歳という若さで天皇に。しかし温和で平和主義だった土御門は後鳥羽上皇に見切りをつけられて、第三皇子である弟の順徳に皇位をゆずることになります。
こういった背景があり土御門は16歳で上皇になったものの、権力を持つことはありませんでした。依然として権力をもっているのは院政を敷いている後鳥羽上皇です。
でもこの温和で平和主義であることが後に良い方向に傾き、土御門上皇の血筋は途絶えることなく生き続けることになります。
土御門上皇(天皇)が配流された理由とは?
1221年に幕府への不満がピーク達した後鳥羽上皇は、承久の乱を起こして幕府を牛耳る北条義時を排除しようとします。
これに強気の順徳上皇は加勢しますが、土御門上皇は逆に「今はこの時勢ではないと」反乱を起こすことを止めるように進言します。
結果は朝廷側の後鳥羽・順徳は、幕府に大敗北する形で承久の乱は終わります。わずか1ヵ月という短い戦いでした。
【めちゃ分かる♪】後鳥羽上皇(天皇)が1221年承久の乱から流罪になるまでを徹底解説!
それにより後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流という厳しい処分が下されました。
この時に土御門上皇も四国の土佐へ配流という処分を受けます。
それは父や弟が遠くの島に流されるのに、自分だけ京に残るが申し訳ないと自ら配流を申し出たからになります。
当然幕府も反乱に関わっていない、むしろ止めようとまでしてくれた土御門を処分することができずその申し出を断ってました。
それでも何度も要請を受けて、幕府は仕方なく土佐へ配流することに決定します。
土御門上皇(天皇)が島流しされた土佐(高知)と阿波(徳島)での生活について
1221年10月に土御門上皇はわずかな供を従え、播磨(現兵庫県)を経てそこから船に乗って讃岐国の屋島(現香川県高松市)に上陸します。そして松山(香川県坂出市)を通過し、流刑先の土佐国(現高知県中村市)へ到着することになります。
土佐国は都と違い、当時はかなりの田舎で生活に苦労をしました。
その2年後ですが今度は阿波国に移ることになり、阿波の守護である小笠原長経(ながつね)の庇護を受けながら生活をするようになります。
一説には故郷の京都に近い場所に移りたかったから、また住居が狭かったからと言われています。
最初は勝瑞(しょうずい)といわれる現在の徳島県板野郡に住まいがあり、後に阿波市に行宮が建てられそちらに移られました。田舎の寂しい風景を詠んだ和歌が残されていることから、すごい山奥の何もない環境であったことが想像されます。
でも反乱の意志がなかった土御門上皇は、後鳥羽上皇と順徳上皇より明らかに好待遇でした。住まいにしても小笠原長経により300m四方もある大きな行宮(あんぐう)が築かれているぐらいなので・・
行宮の建物本体や詳細場所を記載された資料は現存しませんが、建物自体は確実にあったみたいです。
だいたいこの辺にあったのではないかということで石碑と跡地がありますね。
土御門上皇行宮跡石碑
土御門上皇行宮跡地
土御門上皇行宮跡地の所在地になります。
土御門上皇(天皇)は京に帰れたの?
土御門上皇は父と後鳥羽と同じく、故郷の京都に戻ることなく配流先の徳島県阿波市で亡くなりました。
病気で亡くなったという説と、北条氏の部下に攻め込まれて最後は自害されたという説があります。終焉の伝説地(御所神社)が阿波市土成町に存在
道路沿いに建つ終焉の地を示す石碑
赤い橋を渡っていくと御所神社の拝殿が見えてきます。
鳥居をくぐると拝殿があり、ここに土御門上皇が御祭神として祀られています。
自ら望んで島流しにあいましたが、京都に帰りたいという思いは常にあったと思われます。配流先に向かう道中で詠まれた和歌にこのような作品があります。
うき世には かかれとてこそ 生まれけめ ことわり知らぬ わが涙かな
意味としてはこのように辛い目にあえということで、この現世に生まれて来た。そう納得して苦難に堪えるべきなのに分別もなく落ちる私の涙であることよ。
余談ですが土御門上皇は父や弟に負けず和歌の達人です。『土御門院御百首』などの歌集が残っています。
土御門終焉伝説地の所在地になります。
土御門上皇(天皇)の火葬場と陵について
土御門上皇は1221~1231年の10年間、四国で配流生活を終えた後に37歳という若さでこの世を去りました。
火葬は徳島県鳴門市で行われ、阿波神社に隣接する形で火葬塚があります。
阿波神社の鳥居をくぐらずに、向かって左側に歩いて行くと火葬塚があります。
土御門天皇火葬塚と書かれた看板。魚や鳥を取るな!と書かれてます。
近くに寄って分かったのですが、堀の中に火葬塚があるのですね。一周回ると中々の距離があります。
ここまで来たからには阿波神社にもお参りをしに行きましょう。中雀門(ちゅうじゃくもん)をくぐると拝殿が見えてきます。
阿波神社の御祭神は土御門上皇になります。官幣大社(かんぺいたいしゃ)※1への昇格は叶いませんでしたが、ものすごく立派な建物です。※1.最も格式が高い神社を意味します。例えば出雲大社レベル
そしてちょっとややこしいのですが土御門上皇の遺骨は、京都府長岡京市の『金原陵(かねがはらのみささぎ)』に納められています。
阿波神社と金原陵の場所はこちら☟ ぜひ行ってみよう♪
土御門上皇(天皇)の子孫は流刑先にいるの?
土御門上皇の子孫は、流刑先の土佐(高知県)や阿波(徳島県)に残っているのかは不明です。
ただ子供が88代嵯峨野天皇となり、土御門上皇の血筋が途絶えることなく子孫に受け継がれていきます。
承久の乱に敗れた後、一時幕府から後鳥羽系列(ピンクの囲い)は追いやられ守貞派が朝廷の権力を握るようになります。
しかし守貞系列の後堀河天皇、その子四条天皇が早くに亡くなり後継者がいなくなります。そこで後鳥羽系列で、反乱の意志がなかった土御門上皇とその子供にスポットがあたります。
実は土御門上皇にはたくさんの子供がいました。御所神社に貼り出されていた系図を確認すると20人もいます。
ただ嵯峨野天皇を除いては、男子はみんな仏門の世界に入っていました。
まとめ:承久の乱に巻き込まれた土御門上皇(天皇)
後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗北したために、巻き込まれる形で土御門上皇も土佐と阿波に配流となりました。
結果として故郷の京都に戻れることなく、流刑先で生涯を終えることになります。
しかし幸運にも子供が嵯峨野天皇として即位したことで、土御門上皇の血は絶えることはありませんでした。
幸運が舞い降りたのも偶然ではなく、上皇が温和で平和主義であったからだと思います。
反乱の意志が少しでもあった系列を幕府は天皇にするわけにはいきませんので・・
ということで悲運の上皇というか、結果的に勝ち組になった上皇について徹底解説してきました。
最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>