今回は承久の乱に敗れて隠岐へ島流しにあった後鳥羽上皇は、その流刑先でどのような生活をしていたのか?ここにフォーカスして解説していきたいと思います。
他にも・・
- 後鳥羽上皇の子孫は隠岐にいるのか?
- 隠岐から脱出して京都に戻ろうと考えなかったのか?
- 後鳥羽上皇の最後は?
こういったことが知りたい方におすすめの内容となってます。
内容まとめ(結論)
隠岐の中ノ島に流された後鳥羽上皇は和歌や刀づくりに全力を注ぎます。帰京の念はありましたが叶わず、結局亡くなる60歳まで隠岐で過ごしました。
この記事を読めば後鳥羽上皇は京に比べて何もない隠岐島で、どんな場所に住んで、何をして暮らしていたのかバッチリ分かりますよ♪
ちなみに承久の乱勃発〜島流しの刑〜隠岐に移送されるまでを知りたい方はこちらになります。あわせて読んで頂いた方がより今回の内容が分かり易くなります。
承久の乱について☟
【めちゃ分かる♪】後鳥羽上皇(天皇)が1221年承久の乱から流罪になるまでを徹底解説!
島流しになった理由や隠岐までの道のりについて☟
知識0でも分かる♪後鳥羽上皇(天皇)はなぜ隠岐へ島流しになったの?その理由について
それでは早速本文にいってみましょう。
後鳥羽上皇(天皇)は隠岐島のどこに住んでいたの?
まず後鳥羽上皇は、出雲国大浜湊(現在の島根県松江市美保関)から船に乗せられて隠岐の中ノ島に流されます。
隠岐島の中でも『中ノ島』は気候が良く、食べ物が十分に確保できる島であったので上皇を迎え入れるのにピッタリでした。
上陸したのは中ノ島の南に位置する崎港になります。後鳥羽上皇の着船の地ということで石碑が建てられています。
後鳥羽上皇が休憩したとされる御腰掛の石が残っています。上陸した時はちょうど海が荒れていたので、船酔いをされていたのかもしれません。
到着したその日は崎港の近くにある三穂(みほ)神社に宿泊しました。後鳥羽上皇の住まいとなる行在所(あんざいしょ)までは、歩くにしては距離がありますので流石に一泊してからになりますね。
宿泊した三穂神社から行在所までは直線にして5km以上。舗装された道を通って行くと7〜8kmぐらいになりそうですね。当然ですがその時代に車なんてありません、もちろん徒歩で行きます💦
そして後鳥羽上皇の住まい(行在所)である旧源福寺跡になります。お寺は明治に取り壊されており、現在は石碑が建つのみです。
同じ敷地内には後鳥羽天皇(上皇)御火葬塚もあります。60歳で亡くなりこの地で火葬されて、遺骨の大部分はこちらに納められています。
後鳥羽院資料館が御火葬場のすぐ近くにありますので、ここまで来たら寄って行きましょう。1Fは後鳥羽上皇に関する歴史的資料や和歌、2Fは日本刀の展示になっております。
さらに近くに村上家資料館があります。村上家は海士地域の有力者で、後鳥羽上皇の身の回りの世話をしたとされます。隠岐を代表する名家の1つなのでぜひ立ち寄ってみましょう。
最後は後鳥羽上皇が亡くなって700年が経ち、その記念として御火葬塚に隣接する形で建てられたのが隠岐神社になります。
後鳥羽上皇にまつわるスポットの情報をまとめてみました。
黄色と水色の網掛け部の大きく2箇所に場所が分かれてますので、効率的に見て回りましょう。
住所 | 備考 | |
着船の地 | 島根県隠岐郡海士町崎 | 無料 |
御腰掛の石 | 島根県隠岐郡海士町崎1708-1 | 無料 |
三穂神社 | 島根県隠岐郡海士町崎1755 | 無料 |
行在所(旧源福寺) | 島根県隠岐郡海士町海士 | 無料 |
御火葬塚 | 島根県隠岐郡海士町海士1500 | 無料 |
後鳥羽院資料館 | 島根県隠岐郡海士町海士1521-1 | 拝観料300円、営業時間8時半〜17時 |
村上家資料館 | 島根県隠岐郡海士町海士1700-2 | 拝観料300円、営業時間9〜17時 |
隠岐神社 | 島根県隠岐郡海士町海士1784 | 無料 |
後鳥羽上皇(天皇)の島流し先の隠岐では和歌や刀作りに没頭
後鳥羽上皇は隠岐の中ノ島で、亡くなるまでの19年間過ごしました。
上皇という身分で優遇されていることから、労働させられるわけでもなく、食べるのに困るわけでもなく趣味に没頭しながら比較的自由に過ごしてました。
流刑先で刀と和歌作りに残りの人生を全て捧げました。
流刑先での刀作り
後鳥羽上皇は実は刀に精通していて、諸国から鍛冶職人を集めて鍛刀させていました。
ということで隠岐へ島流しにされてからも、島に凄腕の職人を呼んで番鍛冶(ばんかじ)といって2ヵ月交替で刀を作らせていました。
刀を成型していく鍛錬作業は鍛冶職人で、最後の焼入れを後鳥羽上皇が自らやられた作品もあります。その刀には天皇家の菊家紋が施されて貴重な一品です。(下記和鋼博物館HPより刀の製作工程)
後鳥羽院資料館に飾られています。
流刑先での和歌作り
隠岐に流されてから後鳥羽上皇が一番力を入れたのは和歌になります。
隠岐を題材にした『遠島百首』が歌集として残されています。京で詠まれるような風流さはないものの、力強く素朴な和歌が多いのが印象です。
島のいたるところに、遠島百首の和歌が刻まれている看板や石碑などを目にすることができます。観光で訪れた際にはチェックしておきましょう♪
まず後鳥羽上皇が初めて中ノ島に着船したとされる地「崎港」になります。
『我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐(おき)の海の荒き波風心して吹け』という和歌が看板に刻まれています。後鳥羽上皇が詠んだ和歌で一番有名といっても過言ではありません。
私こそが新しく来た島の守り神である。隠岐の荒い波や風よ、これからは心してもっと穏やかに吹けという内容になります。
この地で力強く生きていこうとする決意の表れを宣言したような歌です。
次は少し面白い感じの和歌を紹介したいと思います。『蛙なく勝田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音』これも遠島百首の1つで後鳥羽上皇の行在所にある看板に刻まれています。
行在所(住まい)の周りには水田があり蛙の鳴き声で後鳥羽上皇は眠れませんでした。そこで真心があるなら鳴き止んでくれと蛙にお願いしたところ、うるさかった鳴き声がピタリと止んだと伝えられてます。それから現在までこの周辺では蛙は鳴かないとのこと✨
隠岐神社の石碑にも和歌が刻まれており、これは遠島百首ではなく小倉百人一首の歌になります。
『人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は』ですが訳すと・・
人が愛おしくも恨めしくも思うのは、この世をつまらなく思い悩んでしまう私にあるのだなぁ。
幕府の力が強まっていく現状に不安を持ち、これからの行く末を悩みながら詠んだとされます。
この歌は藤原定家が作った、小倉百人一首の99番目の和歌に選出されているぐらい有名です。そもそもなぜ小倉百人一首に選出されたのかといいますと・・
後鳥羽上皇が流された後、後堀河天皇が定家に新勅撰和歌集を作らせます。そこに後鳥羽上皇の和歌を加えようしましたが、流罪人を入れるなと政治的な圧力がかかります。
また後鳥羽上皇は、昔京で作らせた勅撰和歌集「新古今和歌集」の改訂にも熱心に取り組みました。改訂に要した期間はなんと約18年にも及びます。
こうして出来たのが『新古今和歌集(隠岐本)』になります。後鳥羽上皇が隠岐で成し遂げたこととしては一番大きいことです。
後鳥羽上皇(天皇)の子孫は隠岐島にいてるの?
後鳥羽上皇の子孫が隠岐島にいるのかについては記録がありません。
現地の人と結ばれてその地に子孫を残している上皇(天皇)もいますので、可能性としては0ではないです。
それは違っていて後鳥羽上皇の子孫はしっかり残っています。天皇家の家系図を見てみましょう。
承久の乱後、幕府によって後鳥羽上皇の系統は一掃されてしまいます。後鳥羽、土御門、順徳の3上皇は島流しにされ、仲恭天皇は廃帝に。
後鳥羽上皇の息がかかっていない守貞親王系列で後堀河が86代天皇となり、その息子が四条が87代天皇となります。
ここで波乱が・・後堀河上皇が23歳で、四条天皇も12歳という若さで亡くなってしまいます。さらに四条天皇には子供がいません
幕府はしかたなく後鳥羽上皇の系列から天皇を選ぶことにしました。この時代、決定権は朝廷ではなく幕府にありました。
土御門上皇は承久の乱に加わっていなかった(むしろ反対していた)ので、その子供『後嵯峨』を88代の天皇にすることにしました。※土御門上皇が島流しになったのは自らの強い要望
その後に北朝の後深草派と南朝の亀山派に分かれることになります。
後鳥羽上皇(天皇)は隠岐を脱出して京に戻ることができたの?
後鳥羽上皇は死の間際まで強く帰京を願っていましたが、叶わぬまま隠岐で60年の生涯を終えました。
じゃー幕府に帰京することを許されないなら、島を無断で脱出したらいいやんと思ってしまいますよね。
かつて後鳥羽上皇の子孫である後醍醐天皇が、幕府により隠岐に流されたものの、島を脱出して討幕を成し遂げた実績もあります。
結論からいいますと後鳥羽上皇が島を脱出して帰京をするのはまず無理でした。
その時代は幕府(武士)の力が強く盤石だったので誰も逆らう者、つまり討幕を企もうとする武将はいなかったと考えられます。むしろ幕府に取り立てられようとして媚を売る者の方が大多数!
後醍醐天皇の時は幕府の威光に陰りが見えており、朝廷(反幕府派)の勢力が拡大していて助けてくれる人がたくさんいました。
まとめ:帰郷を願いながら隠岐で最後を遂げた後鳥羽上皇(天皇)
後鳥羽上皇は帰京の願いが叶わず、結局亡くなる60歳までの19年間を隠岐で過ごしました。
和歌や刀など多く作品を残していることから、てっきり充実した日々を隠岐で過ごしていたのではないかと思ってしまいます。
しかし実際は帰京することができない自らの不遇を嘆き、「妄念(もうねん)によって魔物となって世の中に災いをもたらすことになるかも」と亡くなる2年前に述べています。※妄念とは誤った思いから生じる執念
そしてそれが現実となり、後鳥羽上皇が亡くなった後に三浦義村、北条時房、北条泰時と立て続けに亡くなっています。
怨霊による祟りを鎮めるために、後鳥羽上皇の遺骨を西林院から新たに建てられた法華堂に移したとされます。建物は昔に燃えてしまい再建されました。
明治時代になって大原陵が建てられ、遺骨はこちらに移されました。
補足しておきますと遺体の火葬は隠岐の中ノ島でされ、側近の藤原能茂(のりもち)が遺骨を持ち帰り大原の西林院にいったん納めて安置しておりました。
ということで帰京は叶いませんでしたが、隠岐に流されても腐らず和歌や刀作りに取り組まれ、多くの遺産を私たちに残してくれました。
それでは今回はこの辺で、最後までお読み下さりありがとうございました<(_ _)>