今回は後鳥羽上皇はなぜ隠岐に島流しになったのか?その理由について徹底解説していきたいと思います。
- いつになぜ島流しになったのか?
- どこの島に島流しになったのか?その理由は・・
- 島流し先までの移送方法やそのルートについて
などなど・・
こういったことについて知りたい方におすすめの内容となってます。
先にまとめますと後鳥羽上皇は、1221年に起こした承久の乱(北条義時打倒)に敗れ隠岐へ島流しとなりました。結局19年間亡くなるまでそこで暮らすことになります。
この記事を読めば後鳥羽上皇の島流しになった経緯や、島流し先まで辿ったルートなど簡単に分かりやすくまとめてますのでバッチリ理解できますよ♪
島流し先での生活については別記事にて紹介してますのでこちらを参考にして下さい☟
それでは早速本文にいってみましょう。
後鳥羽上皇(天皇)はいつなぜ島流しになったの?
後鳥羽上皇は1221年(承久3年)の5月14日に、鎌倉幕府のトップである北条義時を討伐するために『承久の乱』を起こします。
幕府を潰したいというより、そのトップの執権で幕府を操っている義時を排除しようとしました。主に義時絡みの下記行いが後鳥羽上皇を怒らせたからです。
- 寵愛していた平賀朝雅が討たれる
- 仲の良かった幕府3代将軍の源実朝が暗殺された
- 次の鎌倉幕府将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎えたいと恫喝された
- 愛妾亀菊が持つ所領の地頭職撤廃を要求したが拒否された
- 焼失した大内裏の再建費用を幕府に要求したが拒否された
結果その乱の戦いで大敗してしまい、その年の7月13日に幽閉されていた鳥羽殿を出発して島流し先の隠岐へ向かうことになります。
流刑は後鳥羽上皇だけにとどまらず、その子供たちにまで及びました。
土御門上皇は土佐に、順徳上皇は佐渡に島流しになります。三上皇が揃って流罪になるのは異例中の異例です。
承久の乱についてはコチラの別記事にて詳しく解説してます☟
【めちゃ分かる♪】後鳥羽上皇(天皇)が1221年承久の乱から流罪になるまでを徹底解説!
後鳥羽上皇(天皇)が島流しで流された場所はなぜ隠岐だったの?
後鳥羽上皇は承久の乱の首謀者として島流しとなりました。
それは後鳥羽上皇を近隣の京都に幽閉しておくと、またその影響力を傘に反乱を起こしかねないので遠くの隠岐島に流されることになりました。
本来なら首謀者は処刑になりますので、これでもまだ刑罰は軽減されています。流石に上皇を処刑するのは前代未聞で、世の中を動揺させてしまうと判断したのでしょう。
流された隠岐島は島根半島から40km以上離れていて、この時代におけるイメージとしては遥か西の方にある朝鮮に近い辺境の地でした。
隠岐島は①島後島(隠岐の島町)、②西ノ島(西ノ島町)、③中ノ島(海士町)、④知失里島(知失村)の4つの大きな島と、その周辺にある180以上の小さな島から構成されています。
後鳥羽上皇は③中ノ島(海士町)に流されました。隠岐島の中でも一番気候がよく住みやすい場所ということから身分により少し優遇されています。
隠岐に流された理由としては、遠い異郷の地に送ることで影響力を無くすことが本来の目的ですが実は他にもあります。
それは隠岐が自給自足ができて食べ物が十分確保できる島であったのと、京の都から西北西の良い方角(吉方位)に位置していたからです。
後鳥羽上皇(天皇)の逆輿といわれる移送方法について
後鳥羽上皇は隠岐へ向けて、罪人らしく地味な墨衣の法衣を着て、『逆輿』に乗り出発しました。
逆輿は犯罪人が乗る輿で、進行方向と逆向きに座って乗るような仕様となってます。輿自体の造りも簡素で、天皇や上皇が普段乗るような豪華なものではありませんでした。
【サクッと理解できる】逆輿(さかごし)流罪とは?超簡単に解説!
それに付き従っていたのは近臣、亀菊ら女房と供の者数人だけだったといわれています。
行く先々でその地の武将が道案内と警護をしました。7月13日に京都を出発して、隠岐へ渡る港の出雲大浜湊に着いたのは7月27日となかなかの長旅。
後鳥羽上皇(天皇)の流刑地までの配流ルートについて
後鳥羽上の島流し先である隠岐への配流ルートは、京都鳥羽殿(山城)を出発して摂津の水無瀬宮を通って、明石(播磨)→美作→伯耆→出雲(大浜湊)→隠岐という経路で移送されました。
これは「吾妻鏡」や「承久兵乱記」の資料に残っている、比較的信憑性の高いルートになります。
ただ資料に残っている通過ポイント間の距離が長いので、細かくはルートが違ってくるとは思いますが参考まで。例えば後鳥羽上皇に関する史跡の多さから備前も通過したという考え方もあったりします。
後鳥羽上皇が大浜湊(現在の松江市美保関)に到着後、隠岐に渡る前にしばらく滞在したとされる仏谷寺(ぶっこくじ)。 住所:島根県松江市美保関町美保関530 駐車場:有
有名な八百屋お七の恋人、小姓吉三(こしょうきちざ)の墓もこのお寺にあります。
もう1つは伝説として備後を通った配流ルートがあります。
長井浦の糸崎港から北上していくルートになります。後鳥羽上皇にまつわる史跡を繋いでいくとこのルートが自然と浮かび上がってきます。
備後には伝説が多く残りますが出雲に入ると全く残っていない状態なので、出雲ルートは私の推測で線を引いてます。
陸地のスタート地点が糸崎港になっているのはここまで船で来た説が1つ。もう1つは播磨を通って山陰道へ向かっていましたが、後鳥羽上皇が急に西国をみたいとのことで南下した説があります。
他にも隠岐へ配流中に備後で亡くなった伝説や、また隠岐を脱出してこの備後で亡くなった伝説があります。
まとめ:隠岐へ流罪となった後鳥羽上皇(天皇)
承久の乱に敗れて流罪となった後鳥羽上皇は、結局亡くなる60歳までの19年間隠岐の中ノ島で過ごすことになります。
決して後鳥羽上皇は京に帰るのを諦めていたわけではなく、何度も京にいる近臣達を通じて幕府の執権北条泰時に許しを請いました。
しかし泰時は絶対に帰京を許しませんでした。乱を起こした上皇が帰京した影響力を考えると、とても許す気にはなれなかったんだろうと思われます。
後鳥羽上皇の子供である、順徳上皇や土御門上皇も同じで流刑先から戻ることはありませんでした。
後鳥羽系列は完全に排除しておきたいという幕府の強い意志が感じられますね。
次回は後鳥羽上皇の隠岐での生活について解説していきたいと思います。
☞別記事にて紹介しますので乞うご期待
それでは今回はこの辺で、最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>