今回は崇徳上皇(元天皇)がこよなく愛したと言われる、和歌について徹底解説していきたいと思います。
崇徳上皇は幼い頃から和歌が得意で、多くの作品を詠ってきました。歌に関しては歴代の天皇の中でもトップクラスであることは間違いないです。
- 崇徳はなぜ和歌を愛したの?
- 得意と言われる崇徳の和歌にはどんなのがあるの?
- 小倉百人一首にも選ばれた和歌とは?
などなど・・こういったことが知りたい方におすすめの記事となってます。
崇徳上皇は院政を敷くことができなかったので(政治の表舞台に立てなかった)、和歌に活躍の場を求めて没頭するようになります。百人一首にも選ばれている『瀬をはやみ 岩にせかるる~♪略』の歌は名作中の名作です。
記事を読めば崇徳の有名な和歌にはどういったものがあるのか、その意味までバッチリ分かりますよ✨
それで早速本文にいってみましょう。
和歌をこよなく愛した崇徳上皇(元天皇)
歴代天皇の中でも崇徳上皇は和歌に精通していることで有名です。
5歳で白河法皇(曾祖父)の後押しを受けて75代天皇に即位し、在位中から歌会を頻繁に催してました。幼い時から和歌が好きだったのが分かります。
さらに没頭するきっかけとなったのは、近衛天皇に譲位して上皇となった23歳の時になります。
本来なら崇徳上皇の子供である重仁(しげひと)親王に継がせるのが順当でしたが、父親の鳥羽上皇がそれを望みませんでした。
なぜなら崇徳上皇が自分の子供ではなく、おじいちゃんの白河法皇と自分の妻である藤原璋子が不倫してできた子供だったからです。
崇徳の子供「重仁」に天皇を継がせてしまうと、崇徳が院政を敷き実権を握ることになるのでそれが面白くありませんでした。※院政を敷ける(政治の実権を握れる)のは、天皇になった子供の父か祖父と決まっている
だから鳥羽上皇は、異母兄弟になる近衛天皇を指名したワケです。
この時、崇徳の後ろ盾となってくれていた白河法皇は既に他界しており、朝廷では鳥羽上皇が自分の思うがままに権力を振るってました。
この辺の詳細は別記事で紹介してますのでぜひ☟
崇徳上皇(元天皇)の父親は鳥羽上皇ではなかった!家系図とあわせながら詳しく解説♪
ということで崇徳は上皇になったものの名前だけで、政治の実権を握ることができなかったのです。
なので元々得意だった和歌の道でトップを取ってやろうと、この時から一心不乱にのめり込んでいきます。
鳥羽上皇が和歌にあまり興味が無かったというのもあり、この時の歌壇は崇徳中心に展開されていました。
この時にできた作品として有名なのは、崇徳が藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)に命じてつくらせた『詞花和歌集(しかわかしゅう)』になります。
八代集の第六にあたる勅撰和歌集であり、歴史的にみても大作であるのは間違いありません。
崇徳上皇(元天皇)が詠んだ百人一首の和歌
貴族や上級武士が集まる歌壇の中心となっている崇徳上皇ですが、当然和歌が好きなだけでなくその実力も折り紙付きです。
1番有名なのが小倉百人一首にも選ばれた『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ(崇徳院)』で間違いないでしょう。
この歌は男女の恋愛感情を表現しています。
噛み砕きますと『川の流れが速く、岩によってせき止められた滝川が二つに分かれても、最終的には再び合流するように、愛する人と一度は分かれてもまた再開して結ばれるだろう』と言ってます。
この和歌にはいろいろな解釈の仕方があって、私は心が離れ離れになった父親の鳥羽上皇と、また親子で仲良くやっていきたいという思いが詠われているように感じます。
その他にも崇徳上皇が保元の乱の戦いで敗れて島流しにされてしまいますが、いつか都に戻って復権する野望が歌に込められているという見方もあります。
次の章では島流し先で詠んだ歌を紹介していきましょう。
崇徳上皇(元天皇)が島流し先の讃岐国で詠んだ和歌
島流し先の讃岐国(現在 香川県)で崇徳上皇が詠んだ和歌になりますが、切なく悲しげな作品が多いです。
2つほど和歌を紹介したいと思います。
崇徳上皇は最初に四国の着船した松山の津に絡む歌になります。今は陸地になってますが、大昔はこの辺り一帯は海岸だったと言われています。
『浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく』
噛み砕いて言いますと「浜千鳥の足跡(筆の書き跡)は都へ通うことはできるけど、我が身は松山で千鳥のように泣いてばかりいる」。
つまり崇徳が反省して書いた写経は都へ届くけれど、自身は讃岐国松山の海岸で、浜辺を歩く浜千鳥のように泣いてばかりいるという意味ですね。
この時の心情としては都を恋しく思いつつも、自身が都に戻ることができない悲しみに溢れています。
もう一句は『思ひやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる 心細さを』になります。これも浜辺や海を絡ませた歌ですね。
分かりやすく言い換えると「この気持ちを察してください、都から海を隔て遠く離れた讃岐にいる心細さを・・」。
都での雅やかな日々を懐かしく思い出しつつ、自身が置かれた運命に対する悲しみと寂しさの心情を表してます。
讃岐国で崇徳上皇はどういった生活をしていたのだろう??☟
400年ぶりに島流しとなった崇徳上皇(元天皇)。配流先とそこでの生活は?
まとめ:瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳上皇(元天皇)は政治の表舞台へは立てなかったものの、和歌においてその才能を開花させ活躍しました。当時の文化や社会に大きな影響を与えたのは間違いありません。
百人一首にも選ばれた『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ(崇徳院)』は現代でも多くの人が知る歌となってます。
この記事で紹介している和歌はほんの一部だけで、他にもたくさんの作品があります。
崇徳院の御誕生900年を記念して発行された「崇徳院御集」には、今まで作った178首もの作品が集録されています。
- 天皇期
- 上皇期
- 讃岐に流刑期
上記3パターンから年代順に構成されてますので、時期によって和歌がどう変化してくるのか分かり易いです。
興味のある方はぜひ読んでみてください。
あと香川県にある西行法師の道に行ってみても面白いかもしれません。青海神社から崇徳上皇のお墓である白峯陵に続く道で、和歌を刻んだ石碑や燈籠がたくさん並んでいます。
それでは今回はこの辺で、最後までお読みくださりありがとうございました<(_ _)>